反日朝鮮半島系の人らはどこからきたのか? 人物図鑑と歴史 パスワード
李信恵 |
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1910年8月29日 | 韓国併合(かんこくへいごう、英: Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国[1]を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される[2]。この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。 | ||
1910 |
祖母「通名「:山花玉子」が慶尚道にて誕生。 (*●●●の母親側の母親) |
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1925年(?) |
祖母「通名「:山花玉子」が数え年16の時に生野区に来日。 (*数え年のため、正確な年号は不明) |
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1928年 | 鄭東泉(通名:鳥川龍男)生誕。 鳥川 鄭氏という本貫(名と性の混合) |
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1930年7月18日 | ●●●の母「李福金(通名:山花智恵子)生誕。 P212 |
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1941年12月12日 | 太平洋戦争(たいへいようせんそう、英: Pacific War)は第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国や満州帝国、ドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争である。日本側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされた[1]。 日本軍のイギリス領マレー半島攻撃により始まり、その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。 |
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1945年8月15日 | 日本、敗戦。 | ||
1948年4月3日 ~ 1954年9月21 |
済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[4]。 南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された[5]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた[5]。 |
高英哲、済州島四・三事件での虐殺事件から逃れるため、日本に避難する。 | |
1948年4月14日 ~ 1948年4月26日 |
阪神教育事件(はんしんきょういくじけん)[1][2][3]は、GHQの指令を受けた日本政府が「朝鮮人学校閉鎖令」を発令し、日本全国の朝鮮人学校を閉鎖しようとした事に対して、1948年(昭和23年)4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した在日韓国・朝鮮人[4]と日本共産党による民族教育闘争[5]で、日本国憲法下で唯一の非常事態宣言が布告された。朝鮮人学校事件[6]、大阪での事件は大阪朝鮮人騒擾事件[7]、また神戸での騒乱事件は神戸朝鮮人学校事件[8]とも呼ばれる(その他の呼称については本項で記す)。 大阪で当時16歳の金太一が警官隊の発砲で死去。また当時の朝鮮総連兵庫県本部委員長だった朴柱範が有罪判決を受け、神戸刑務所に服役。1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが、4時間後に死亡した[5]。 |
阪神教育闘争。 母は参加。 金時鐘は不参加。 高英哲は不明。 |
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1950年6月25日 |
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争[2][3][4][5]。1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が中華人民共和国の毛沢東とソビエト連邦のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した[6][7]。 分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。 終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されておらず、緊張状態は解消されていない。休戦以来、北朝鮮は幾度となく大韓民国への領空、領海侵犯のみならず砲撃をも行い、韓国や日本などの国民の拉致や恫喝を繰り返している。 |
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1950年11月20日 ~ 1950年11月27日 |
長田区役所襲撃事件(ながたくやくしょしゅうげきじけん)とは、1950年(昭和25年)11月20日から11月27日にかけて、兵庫県神戸市長田区で発生した在日朝鮮人による公安事件。 第一神戸事件(阪神教育事件)に続く、神戸で起きた第二の騒乱事件という意味から第二神戸事件ともいう。 |
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1951年12月1日 | 東成警察署襲撃事件(ひがしなりけいさつしょしゅうげきじけん)とは、1951年(昭和26年)12月1日に、大阪府大阪市東成区で発生した事件。 | ||
1951年10月18日 |
WIKIPEDIA 日野事件(ひのじけん)は、1951年(昭和26年)10月18日に、滋賀県蒲生郡日野町で発生した公安事件。 1951年10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。 国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。 そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された。 |
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1951年12月16日 | 親子爆弾事件(おやこばくだんじけん)とは、1951年(昭和26年)12月16日に大阪府大阪市で発生した事件。在日朝鮮人によって、工場・民団襲撃、集団暴行などが起こされた。 | ||
1951年12月18日 | 伝聞情報 間違いか? ========= 1951年12月18日 滋賀県蒲生郡日野町(安土村・愛知郡愛知川・神崎郡能登川)を中心に朝鮮人デモ隊に威嚇射撃30発。2名命中し、5名逮捕。(祖国防衛委員会主催) ======= WIKIPEDIAの「日野事件」とはかなり情報が違う。 |
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1952年 | ●●●の母と高英哲が結婚。 | ||
1952年6月24日 ~ 1952年6月25日 |
吹田事件(すいたじけん)は、1952年6月24日(火曜日)から6月25日(水曜日)にかけて、大阪府吹田市・豊中市一帯で発生した吹田騒擾事件と、その裁判で起きた事件(吹田黙祷事件)の両方を指して吹田事件という。ただし吹田騒擾事件のみを指して吹田事件とする場合もあり、定まっていない。同年に起こった血のメーデー事件、大須事件と並んで三大騒擾事件の一つとされている。 | 吹田事件。 (金時鐘によると、高英哲が吹田事件に参加している可能性は高い:金杉解釈) (祖国防衛委員会主催) *後に日本政府・韓国政府(KCIA)指名手配) なおKCIAは1961年、朴正𤋮(パク・チョンヒ)によるクーデター後に作られた機関である。 |
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1953年1月 | 金時鐘と高英哲がサークル活動を通じ、密会。これが「チンダレ」に通じる。 |
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1950年6月25日 ~ 1953年7月27日 |
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争[2][3][4][5]。1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が中華人民共和国の毛沢東とソビエト連邦のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した[6][7]。 分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。 終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されておらず、緊張状態は解消されていない。休戦以来、北朝鮮は幾度となく大韓民国への領空、領海侵犯のみならず砲撃をも行い、韓国や日本などの国民の拉致や恫喝を繰り返している。 |
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1954年9月21日 |
済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[4]。 南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された[5]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた[5]。 |
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1959年12月25日夜 |
高英哲、逮捕。 |
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1960年 | 高英哲、長男、長女が帰国事業にて北朝鮮へ(*住所は平壌。生き別れ) (*次男は日本にて待機) |
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1961年 | 大韓民国中央情報部(略称KCIA)は、朴正煕時代の韓国の情報機関である。 1961年、朴正煕によるクーデター成功の一ヵ月後に、大韓民国国軍の諜報機関であるCIC(Counter Intelligence Corps、対敵諜報部隊)のメンバーを中心に設立された。主要な任務は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)工作員の摘発であったが、軍政時代は反政府運動の取締りにも辣腕を発揮した。本部の所在地名から、通称「南山」と呼ばれ、韓国国民から恐れられた。 |
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1963年 | 鄭東泉(*2番目の父)と母親の白黒写真。 (コメント:お見合い期間が長すぎる) |
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1965年 | 日韓基本条約調印 発効。日本は大韓民国を全朝鮮の正統政府として承認。 | ||
1966年 | ●●●の母親は鄭東泉と再婚(創価学会にて出会う)。 | ||
1971年8月11日 | ●●●、誕生。(アボジ45歳、オモニ42歳)(*再婚して5年目) |
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1974年8月15日 | 文世光(ムン・セグァン)事件。 大韓民国(韓国)大統領・朴正煕夫人の陸英修が在日韓国人の文世光によって射殺された事件である。同時に式典に合唱団の一員として参加していた女子高生の張峰華(当時17歳)も、朴大統領に迫る犯人に向けて応戦した大統領警護室のセキュリティポリスが撃った流れ弾に当たり事故死した。 この日は、大韓民国での日本からの独立記念日である光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席している時の出来事であった。 |
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1978年4月20日 | 大韓航空機銃撃事件(だいかんこうくうきじゅうげきじけん)は、1978年4月20日に韓国の大韓航空機が誤ってソ連の領空を侵犯したため、ソ連防空軍機の攻撃を受けた事件である。事故機は不時着には成功したが、乗客のうち15人が死傷した。 事故機が不時着した地から「ムルマンスク事件」と呼ばれることもある[1]。なお、「銃撃事件」と呼ばれるが、実際は銃撃ではなく、空対空ミサイル攻撃である。 |
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1983年9月1日 | 大韓航空機撃墜事件(だいかんこうくうきげきついじけん)は、1983年9月1日に大韓航空のボーイング747が、ソ連の領空を侵犯(航路逸脱の原因については後述)
したために、ソ連防空軍[1] の戦闘機により撃墜された事件のこと。乗員・乗客合わせて269人全員が死亡した。 なお、大韓航空はこの5年前にも航法ミスでソ連領空(コラ半島上空)を侵犯し、ソ連軍機に迎撃されている(大韓航空機銃撃事件)。 |
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1986年 | ●●●が15歳の時に、民族名を名乗る。 | ||
1987年 | 高英哲、逝去。 |
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1987年11月29日 | 大韓航空機爆破事件は、1987年11月29日に大韓航空の旅客機が、偽造パスポートを使い日本人に成り済ました北朝鮮の工作員によって、飛行中に爆破されたテロ事件である。 | ||
1988年 | 高英哲の逝去の知らせが文玲より手紙が来る from 平壌。 | ||
1993年 | 鄭東泉、逝去。(*なお、葬儀は済州島出身である高英哲のチェサに則(のっと)る。 | ||
1996年 | ●●●、結婚と同時に戸籍作成をする。 |
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2002年 | 日韓犯罪人引渡条約が6月21日より効力発生。 | ||
2005年 | 韓国にて戸籍法(韓国の民放)改正案通過。 | ||
2007年6月 | 朝鮮総連本部ビル売却問題。 朝鮮総聯本部ビル売却問題(ちょうせんそうれんほんぶビルばいきゃくもんだい)とは、2007年6月に発覚した、朝鮮総聯本部ビルの建物及び敷地の不透明な売買に関する問題のことを指す。朝鮮総連の利権を守るために複数の国会議員や政府関係者が関与したとされる。 |
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2008年 | 同上戸籍法が施行。これにより、母方の本貫を子が名乗ることが可能となる。 | ||
2009年12月4日 |
京都朝鮮学校公園占用抗議事件 | ||
2013年3月 | 朝鮮学校問題に係る在日スパイ被疑事件。 2012年6月、男性は自身が営んでいた運送業の運転資金として、1000万円の公的資金を兵庫県庁から騙し取った疑いで公安警察により逮捕・起訴されて公判中のところ、北朝鮮の在日スパイとして情報収集を行った際に著作権法違反の罪を犯した事実が発覚したため、2013年1月に公安警察によって再逮捕されている[8]。公安警察は、朝鮮総連の幹部だった親族宅の捜索も実施。詐欺の指南役とみられる滋賀県在住の日本人男性も逮捕された。男性は、保釈された際に取材に訪れた報道関係者に対し、「詐欺はともかくスパイや違法な工作活動は認めない」として、スパイ容疑を全面的に否認したが、公安警察は男性が北朝鮮当局との間で暗号化されたメールのやり取りをしてきたことを確認しており、捜査で主動的な役割を果たした大阪府警には、重要事例として警察庁長官賞が授与された。 2013年3月、男性は兵庫県庁から会社の運転資金をだまし取った罪で懲役4年の有罪判決を受け、捜査は終結した。 |
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2014年12月17日 | エル金、凡、李信恵らが主水に集団リンチ事件。 |
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2016年12月11日 | 主水が李信恵、エル金、凡、伊藤大介、マツモトエイイチらに民事訴訟をして、ついに公開裁判。 |