017/01/29(日) 西岡昌紀「ミステリー講演会」「アンネ・フランクはなぜ死んだか」 前半


大阪府吹田市 関大前駅 スタジオ・シチズン
撮影 スタジオ・シチズンのマスター西岡氏


以下、文字お越し



 
制作:京都データサービス

音声:No_01_西岡昌紀20170129前半

話し手:司会 西岡 女性A

録音時間:84分

納品日:2017年3月2日


☆ディクテノート
・意味がわからなかった部分は〈(?)〉、聞き取れなかった部分は〈***〉で表記しております。ご確認のほど、よろしくお願いいたします。

 
   
  (音声開始 00:00:00)     
  (間)     
 司会 皆さん、こんにちはか、こんばんはか、わかりません。今日は生放送じゃございません。録画をして、少しNG部分はカットしたものを放送するというかたちで、本日は1月の29日、日曜日ですが、ここスタジオシチズンにおきまして、ゲストをお招きしての講演会でございます。
下にありますように題しまして、西岡昌紀のミステリー講演会というちょっとミーハーなタイトルがついておりますけれども、実は番組終わってあって(?)来られてる方もよくご存じのとおり私も西岡正士といいます。今日はダブル西岡でお届けしようと思います。
いろいろとマルコポーロ事件以来、いろいろと物議をかもしてきたわけですけれども、その伝わり方っていうのは本当に非常にねじ曲げられた伝わり方をしているので、今日はご本人にしっかりとその辺の事情だとか、成り行きだとかいうようなことも含めて、大体今日は争点になっておりますガス室、アウシュヴィッツにガス室があったのか、なかったのか、こういったところを中心的にお話ししていただこうと思っております。

本日のゲスト西岡昌紀さんです。よろしくお願いいたします。 
 西岡昌紀

アウシュヴィッツ
 
  会場 (拍手)     
  司会 それでは、よろしくお願いいたします。     
 







西岡 どうも今日はまたお招きありがとうございました。前回も大変楽しくお話しさせていただきましたし、一応前回の話の続きのつもりですけれども、今日初めていらっしゃった方もいらっしゃいますし、またインターネット見てくださる方も前回見なくてもわかるように話をしようと思いますので、よろしくお願いいたします。

まず、前回は2015年7月、









 
   
   
司会 ですかね。
   
   
西岡 今日は2017年1月29日なんですけれども、こちらのスタッフと連絡取ってるときにたまたま、本当にたまたまなんですけど、またやろうかという話だったら、今もお話に出てきた『マルコポーロ』の廃刊が発表されたのが1995年の1月30日なので、明日が1月30日ですからちょうど22年目に当たる日だなということもあって、またこの話をしようと。

ミステリー講演会と銘打ったのは、ミステリーツアーから取ったわけで、来てみないと何を話すかわからないという、そういう物騒な講演会にしようと。

私のこと知ってくださってる方だったらわかると思うんですけど、別に私はこの問題にばっかり関心持ってるわけじゃないので、お話しできることはいろいろあるなと思ってまして、まず医者の端くれですから、あとで今の日本の医療の問題に関しては、いろいろ危機感持ってることもあって、いろいろお話ししたいことはあると。

機会があれば、医療の話でも面白い話できると思ってるんですけれども、そのほか政治的なことを言えば、私は右でも左でもないんですね。右でも左でもないっていうのは真ん中をいってるということよりは、あることでは、に関しては、いわゆる右の人みたいな意見も持ってるし、別のことでは左の人みたいな意見も持ってると。

例えば憲法9条は僕は無理があると思うから改正するべきだという意見ですけれども、その一方で私、政治的な順位から言えば、私の最優先の関心事なんですけども、私はばりばりの反原発派でして、1980年代から自ら過激派を名乗るほどの反原発派です。本当一番話したいの、原発の話なぐらいなわけで、はっきり言って、ガス室なんて昔の話よりも今の原発の話をしたいぐらい、関心はそっちにあります、はっきり言って。だからたまたま、ああいう『マルコポーロ』廃刊事件という事件があったので、あのことについて話すのも、私の一つの責任だと思うのでお話しするし、あの事件ももちろん意味はあると思うんですけれども、主たる関心事ではありません、ガス室の問題はですね。歴史には昔から関心ありましたけども、その中でも特にこれからお話しすることでわかっていただけると思いますけども、いわゆるナチスドイツとかユダヤ人とかいうものに特別深い関心があるわけでは、全然ないんですね。むしろ戦時報道、戦争における報道ということに関心を持つ中でこの問題に関心を持っていったのが正しいわけで、ドイツ問題とかユダヤ人問題ということは、私、主な関心ではありません。そういうことはまたお話ししていこうと思います。

その前に、またちょっと今日の1月29日ということでお話ししますけれども、毎年、1月になると、1月17日にくると、阪神大震災の起きた日だということで私は非常にそれ意識します。それと同時に、その1月17日の阪神大震災の起きた日に問題の『マルコポーロ』が発売されたわけで、もちろん偶然なんですけれども、この記憶が非常に不可分に結びついていますね。

私、実は私だけじゃなくて『マルコポーロ』の編集長だった花田紀凱、現在の『月刊 Hanada』編集長ですけども、花田さんとも今も親しくよく会うんですけれども、話をするとやっぱり阪神大震災になると、『マルコポーロ』のことと記憶が一つになって思い出すっていうの、私と同じだなっていう、ふと思います。私も花田編集長も、阪神大震災に非常に心を痛めて、当時はもちろんですし、そのあとも22年間ずっと阪神大震災のこと思い続けてきたので、それに対する心の痛みがあって、それが自分たち、まさにかかわった『マルコポーロ』廃刊事件と一つのものになっているというところで、この時期は非常に毎日阪神大震災のことを考えますね。だから『マルコポーロ』廃刊事件よりも阪神大震災のことを考えるのが、この時期の私の気持ちというところですね。

インターネットで読めますので、一つ読んでいただきたいと思っているのがあるのが、私がブログで書いたんですけれども、阪神大震災のときに、私は厚生省直轄下のある病院で、関東で働いてたんですけれども、地震が起こったその日に、自分の年休を取って、神戸に行って何かできることあればやりたいということを言ったんですけれども、まあ、待てと。そのときに医院長が言って、そのままずっと行けなかった。それは実は『マルコポーロ』の事件とは関係なく、これは実は別の問題があって、理由はわからないんですが、阪神大震災の起こった直後に、厚生省直轄下の国立病院や国立療養所などの医療機関で多くの医療スタッフが、管下(?)の神戸で行って、医療活動手伝いたいということを申し入れてるんですね。ところが厚生省がそれをすぐにうんと言わなかったんですね。
理由がよくわからないんですが、ある人の推測を言えば、それ、厚生省は労災が発生することを恐れたんじゃないかと。
そんなことで、厚生省の直轄下の国立病院の医師や看護師、その他の医療従事者こそが、本来国家公務員の医療従事者なんですから、真っ先に神戸に行くべきだったと思うんですけれども、厚生省上層部がそれを許さなかったので、行けなかったと。このことで私は今も厚生省を許せない気持ちを持ってるわけですが、それが私の場合はこの『マルコポーロ』廃刊事件とちょっと絡んできて、1月17日に『マルコポーロ』が発売された。そのあとイスラエル大使館とサイモン・ヴィーゼンタール・センターの抗議活動が始まって、しばらく私には何のおとがめもなかったんですが、1月30日に至って、文春が『マルコポーロ』の廃刊を発表したその日から厚生省の動きが突然変わりまして、翌日1月31日の月曜日に病院に行ったら、病院に行った途端に、院長先生に呼び出され、半ば軟禁状態みたいな状態で何も発言するなみたいなことを、厚生省からのすさまじい圧力を受けたわけです。それまでは何も厚生省言ってこなかったんですね。だから突然あの廃刊のあとになって、厚生省よりも上のところからすごい力が加わったらしくて、大変な騒ぎになったと。そのことについて、あとでまたお話しすると思いますが、いずれにしてもそういうことがあって、私は阪神大震災と『マルコポーロ』廃刊事件の記憶が非常に不可分になっていて、この時期は毎年そのことを考える時期です。

花田編集長もそうです。


 『マルコポーロ』

花田紀凱


『月刊 Hanada』


阪神大震災

 
  それからあとでちょっとふれると思うんですけど、もう1人今も、今年も同じことを思ってるだろうなと思う人がいるのは江川紹子さんで、あとでちょっとこの雑誌の記事をご紹介しますけれども、彼女は阪神大震災が起こったあと『マルコポーロ』に記事を寄稿するために、神戸に行って、神戸で大変な思いをして取材してたんですね、震災直後のところで。
ところがその震災が起こったところに、突然『マルコポーロ』の廃刊の知らせが入って、彼女が驚いたということが、ちょっとここに月刊『創』という雑誌の1995年4月号に書いてある、あとでお見せしますけども、江川さんがこの雑誌に書いた『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたかという記事の冒頭をちょっと読みます。

明石市から被災地に入って、毎日少しずつ移動しながら8日目に西宮市に到着した。もちろん今回の阪神大震災の取材のためである。1月30日、今回の取材日程も最終日となった日の午後3時頃のことだった。携帯電話が鳴った。突然ですが。聞こえた文藝春秋社の月刊誌『マルコポーロ』のKデスクの声は暗く深刻だった。マルコが廃刊となりました。今売られている号で最後です。次号は出ません。うそでしょう?なぜ?ユダヤ人のホロコーストを巡る記事が問題になって、ユダヤ人の団体から抗議を受けたとのこと。交渉中だったが、会社が廃刊を決め、それが産経新聞に出るという話だった。青天のへきれきとは、まさにこのことだ。

このあといろいろあるんですけども、江川さんは震災が起こっても直後の阪神、神戸に行って、そのときの被災地の状況を本当に一生懸命取材していたのに、それが『マルコポーロ』廃刊になったことで、その取材が載せること(?)、記事を書けなかったということで、私、もちろん私が廃刊を決めたわけじゃないですけれども、その意味で、結果的には江川さんに本当に申し訳ないことしたという気持ちちょっと持っています。江川さんも、だから毎年この時期の阪神大震災とあの事件のこと一緒に思い出してる。だから私と花田さんと江川さんの3人は、毎年多分おんなじ気持ちを起こしてるんだと思うんですね。だからそういう気持ちもあるんで、神戸ではありませんけども、大阪に来て、この話ができるというのは、ちょっと意味があることだなと思いました。


 
 江川紹子  
   
ミステリー講演会と銘打ってるんで何話そうかなと思ってて、原発の話をしたいななんて気持ちもあったし、それから私、映画が好きなんで、『シン・ゴジラ』の話しようかな、
 『シン・ゴジラ』  
  女性? (笑)     
  男性? (笑)     
 西岡 そんなことも考えてたんですけども、とにかくこの1月29の日だと、やっぱりこの話をしたいなと思って、この話を今日はまたしようと思います。
 
   
 
それで題名に、今日はアンネ・フランクはなぜ死んだかという題名をつけさせていただきました。
これはもうぴんときてる方いらっしゃるかもしれませんが、私が尊敬する広瀬隆さんの本に『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』という本があって、とてもすばらしい本だと思ってますけども、ジョン・ウェインがなぜ死んだかということを考えていくうちに、核開発の歴史がいろいろ浮かび上がってくるという話があります。アンネ・フランクもちょっとそれと似たところがあって、アンネ・フランクがなぜ死んだかということを考えていくと、20世紀の歴史の非常に大きな問題が浮かび上がってくる。そういう意味で、実はこの題名で本を書こうと思ったこともあったんですが、ちょっと出版社に力が足りなくて、それ、できなかったというところもあるんですが、そっから話をしようと思うんですね。

まずアンネ・フランクはなぜ死んだかというと、本当のことはよくわかってないんですね。というのは、彼女の死体を誰か医者が確認して、解剖して確認したというの医学的に検討がなされてるわけではないし、そうした記録が残ってるわけではないので、わからないんですが、一応皆さん、もしあとで、例えばスマートフォンで検索なさってもいいですけども、アンネ・フランクなぜ死んだかということをお調べになったらば、まず、これ請け合いますけど、どの本、どの情報でも病気で死んだ、病死したと書いてあります。


 
アンネ・フランク
広瀬隆

『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』


発疹チフス
 
 
場所はベルゲン・ベルゼン強制収容所というところです。ベルゲン・ベルゼンというのは、ドイツ北部にあってデンマークの国境に近いところで、私は行ったことありませんけど、その収容所跡は今も公開されています。そのベルゲン・ベルゼン収容所で、アンネ・フランクは死んだと、これは間違いないこととされていて、それで病死であると。

その病気は、じゃあ何かというと、これも本を見れば、みんな大抵、発疹チフスという病気を挙げている。あるいはその病名までは書いてないかもしれませんけども、ベルゲン・ベルゼン収容所で発疹チフスが大発生しまして、たくさんの人が死んだと。その1人だったんだろうと推測のようなんですけれども、そういうふうに書いてあります。

あと何かインターネットで見ると、アンネ・フランクは死なないで、その後も生きてたなんて話があるそうですけど、それ事実確認できませんから私にはそれわかりませんが、一応いわれていることをそのまま、ここでは受け入れようと。

病死した。ベルゲン・ベルゼン収容所で発疹チフスという病気で病死したといわれていて、私も別にそれを疑ってるわけでも否定してるわけでもありません。ここから考えていきたいんですね。
 


ベルゲン・ベルゼン強制収容所
→WIKIPEDIA
(独: Konzentrationslager Bergen-Belsen)
ドイツ・プロイセン州・ハノーファー県(de)(現在のニーダーザクセン州)・ベルゲン(de)のベルゼン(de)に存在したナチス・ドイツの強制収容所。ツェレから北16キロ、ハノーファーから北東65キロの場所に存在した
。『アンネの日記』を書いたユダヤ人少女アンネ・フランクが命を落とした収容所として知られる。
公式には「滞留収容所(Aufenthaltslager)」と名づけられていた[1]。


「アンネ・フランクは死なないで、その後も生きてたなんて話」




 
 西岡


言葉っていうのは大事なことで、使う側も気をつけて言わないといけないんですけれども、私が『マルコポーロ』に記事を書いて、ナチ『ガス室』はなかったという記事を書いて、それから2年後にこの本を出したんですけれども、それでホロコーストを否定したっていうわけですよ。

ホロコーストとは何かによるわけなんですけれども、そこで、もしかしたらまだここにいらっしゃる方の中にもまだ誤解してる方もいらっしゃるかもしれませんけど、ホロコーストっていう言葉は曖昧なんで、私は今、なるべく使わないようにしているんですが、いわゆるナチスドイツと呼ばれた政治体制のもとで、ユダヤ人が差別や迫害を受けたことは、別にそれは全く自明のことで、そのことを否定などしていないわけですね。ユダヤ人が差別迫害されたことを否定してなど全然いないんですけれども、『マルコポーロ』の記事でもそれははっきり書いているんですけれども、いまだにそれ誤解してるのか、あるいは意図的にそれねじ曲げるのかわからないんですけども、それを全否定してるかのように言ってる人もいれば、そう思ってる方もいらっしゃるわけで、別にそれを否定してるわけではありません。

ただ私が『マルコポーロ』の記事で書いて、それからこの本の中でも詳しく論じたことは何かというと、まず第三帝国がユダヤ人を差別迫害したことは事実であると。

ただし二つの点に関しては、戦後の歴史が言ってることに関して納得ができないと。証拠を示してくれれば納得します。でも証拠が示されていないから、それは納得できないと言ってることが2点ある。

それは、まずドイツがユダヤ人を差別迫害したことは事実だし、その過程で、収容所にユダヤ人をたくさん収容したことも事実です。

いわゆる私たちが知ってるようなユダヤ人を大々的に収容所にみんな集めて収容するというのは、実は、本当に始められたのは1942年になってからなんですね。

これあとで話すと思いますけども、日本人の多くはマスコミに洗脳されていて、1930年代にヒトラーが政権を取った直後からそういう収容生活が始まったと勘違いしてる人が多いんですけれども、これはマスコミの皆さんの印象操作であって違うんですね。

ヒトラーが政権を取ったあと、確かにユダヤ人は差別や迫害を受けましたけども、圧迫を受けましたけれども、ただちに収容が始まったわけじゃないんです。ヒトラーが政権取ったあとに、ただし、かなり拘束されたりして収容されたのは、正しいか正しくないかは別として、とにかくヒトラーたちが不倶戴天の敵とみなした共産主義者だったんですね。ただその共産主義者に非常にユダヤ人が多かったと。

その話と1942年以降の一般的なユダヤ系市民の収容、マスコミは意図的だと思いますね。ごっちゃにしてるんですね。政権を取った途端に、そういう政策が始まったことのように言ってますけども、そうじゃなくて、1942年以降であると。もちろんそれがいいとか言ってるんじゃないです。ですけれども、収容政策を取ってアウシュヴィッツを含めて多くの収容所にユダヤ人を集めたと。

ただここの先が問題で、こんにち、いわゆる私は通説、通りという字に説明の説で、通説ですね。通説側の歴史家たちは、それはヒトラーがユダヤ人をただユダヤ人というだけであるというだけの理由で絶滅しようとしたんだと。理由はユダヤ人であると、それだけであると。それで絶滅しようとして、その目的でそういう収容政策をしたんだと。

特にあとで話が出ますが、たくさんヨーロッパ中に作った収容所の中で、六つの収容所は初めから絶滅を目的に作られた収容所だった。それを今の歴史家たちは絶滅収容所と言うわけです。Extermination camp、英語ではですね。あとドイツ語だと、Vernichtungslagerっていうんですけれども、六つの収容所というのは、
アウシュヴィッツ、
それからマイダネック、
それからソビボル、
ヘルムノ、
ベルゼック、
トレブリンカ。
ちょっと発音は英語とドイツ語ごちゃごちゃですけれども、六つの***。なぜかここが実は一つポイントなんですけども、今、こんにちの歴史家が絶滅収容所と呼んでる収容所は、戦後ポーランドの領土にあったところにあります。みんなポーランド領内にあったということになってるわけですね。
これらの六つの収容所は、初めからユダヤ人を絶滅、つまり大量処刑するために作られたんだと。そしてその手段としてガス室が使われたと説明するわけです。

私は第三帝国が民主主義に反する体制だということ、もちろん明らかだと思ってるから、彼らの政治体制に共感するわけじゃないし、思想にも共感しませんけれども、事実は何かは客観的に検証されるべきで、ユダヤ人をとにかくそういうふうにして、特に1942年以降、次々に拘束して収容所に入れたのは事実だけれども、その目的がユダヤ人絶滅だったというのは本当なのか。

それからその手段としてガス室があって、ガス室でユダヤ人が殺されたというのは本当なのかと、この2点にはちょっと待ってくれと。証拠はあるんですかということを言い続けてるわけです。

これは別に私が独自に言いだしたことじゃなくて、戦後まもない時期から、この2点に関しては疑問の声があったんです。ところがそれを戦後の日本でも欧米でも、マスコミ、アカデミズムがそれが全く疑問の余地がないかのように語ってきたと。




 
 絶滅収容所
英語
Extermination camp
ドイツ語
Vernichtungslager


★アウシュヴィッツ、

★マイダネック、

★ソビボル、

★ヘルムノ、
WIKIPEDIAでの表記は「ヘウムノ」(KZ Chełmno)

★ベルゼック、
WIKIPEDIAでの表記はベウジェツ(Bełżec)

★トレブリンカ。




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マイダネク(独・波:Majdanek)、正式にはルブリン強制収容所(独:Konzentrationslager Lublin)は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に設置した強制収容所の一つである。ポーランド、ルブリン郊外に位置する。マイダネクにはガス室が設置された。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所と同じく強制収容所と絶滅収容所の役割を兼ね備えた収容所であった[1]。その規模はアウシュヴィッツ=ビルケナウに次ぐ。
親衛隊(SS)がつけた正式な名称は「ルブリン強制収容所」であったが、周辺住民たちは、この収容所を近隣の村マイダンの名前をとって「マイダネク」と呼び習わしていた。戦後はこの名前で有名となった[2][3]。
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ソビボル強制収容所(Konzentrationslager Sobibor)、もしくはソビボル絶滅収容所(Vernichtungslager Sobibor)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがポーランド東部のルブリン県のソビボル村においた強制収容所。ユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って作られた三大絶滅収容所の一つ(ソビボル強制収容所、ベウゼツ強制収容所、トレブリンカ強制収容所)[1]。1942年4月に完成し、以降閉鎖されるまでの間、ここにユダヤ人、ユダヤ系ソ連兵捕虜、ロマ(ジプシー)などが大量に移送されてはガス室などに送られた。約20万人から30万人の人々がここで殺害された[注釈 1]。
しかしこの収容所では1943年10月に600人の囚人たちが反乱を起こしており、そのうち約半数が脱出に成功している。この事件がジャック・ゴールド監督の映画「脱走戦線 ソビボーからの脱出」(Escape from Sobibor)(1987年英国)に描写されている。この大規模脱走事件の後、この収容所は閉鎖された。囚人による反乱で閉鎖に追い込まれたのは数ある収容所の内ここだけで、ソビボルの名は戦後も収容所付近の村の名前として残っている。

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WIKIPEDIAでの表記は「ヘウムノ」
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ヘウムノ強制収容所(KZ Chełmno)は、ナチス・ドイツがポーランドのヴィエルコポルスカ県ヘウムノ村(pl:Chełmno nad Nerem)に設置した強制収容所(絶滅収容所)。ヘウムノはウッチから70キロほど離れたところに存在していた。ドイツ側からの名称はクルムホーフ強制収容所(KZ Kulmhof)である。ユダヤ人、ジプシー、ソ連兵捕虜など最低でも15万人の人々がここで殺害されたという[1]。
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ベウジェツ(Bełżec)はポーランドの東部ルブリン県にある村。トマシュフ・ルベルスキの8キロほど南、県都ルブリンの114キロほど南東に存在している。人口は2723人。
ひと気が少なく鉄道が走るベウジェツ村には第二次世界大戦時、ナチス・ドイツがラインハルト作戦に使った三大絶滅収容所のひとつベウジェツ強制収容所が設置されていた。43万人にも及ぶユダヤ人がそこで殺害されている。

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トレブリンカ強制収容所(トレブリンカきょうせいしゅうようじょ、Konzentrationslager Treblinka)、もしくはトレブリンカ絶滅収容所(トレブリンカぜつめつしゅうようじょ、Vernichtungslager Treblinka)は、ワルシャワから北東約90kmに存在したナチス・ドイツの強制収容所である。ポーランドのユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って作られた三大絶滅収容所の一つである(他にベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所)。

1942年7月23日の開所から1943年10月19日に放棄されるまでの約14か月の間に、ここで殺害されたユダヤ人の数は73万人以上にのぼる[# 1]。

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  私がこの問題どうして突き当たったかは前回お話ししました。またあとでもちょっとそれは言うかもしれませんけども、それは私はたまたま1989年頃にその議論があることを知って、それでこれは今日のこちらの皆さんの、主催者の側の関心事と一致するとこだと思うんですけども、1994年頃に、皆さん、もうあんまり覚えてないかもしれないけど、こんにち、まさに言われてるヘイトスピーチ規制法のような動きが日本でも出てきたんですね。あのときも少ないながら、ヘイトスピーチと言葉使ってる人はいましたね。とにかくそういう歴史問題に関する言論規制を強化すべきだということが日本ですごくマスコミを中心に出た時期だったんですね。その時期に私は言論規制が進むことに危機感を持って、それで自分が集めた資料を大学教授だとかマスコミ関係者に送っていたら、その1人だった花田編集長が関心を持って私に記事を書いてくださいと言ったのが『マルコポーロ』に記事を書くきっかけだったんです。

それはともかくとして、そういうふうに戦後まもない時期から、実は疑問が挙がってたんです。この絶滅という計画、本当にあったのかということと、ガス室本当にあったのかというのは、戦後まもない時期から実はいわれてたんです。

ただ私たちが知らされてこなかっただけなんです、マスコミや大学の偉い先生たちからですね。 
   
  で、そのことで一つ私がいつも強調してること一つ言うんですけれども、そういう疑問をヨーロッパで最初に言った人は、事実上、本を書くようなかたちで最初に疑問を投げかけた歴史家というのは、フランスのラッシニエという歴史家で、この人はレジスタンスです。
だから皆さんの中には、とにかくマスコミに洗脳されてると、ガス室はなかった。そんなこと言うのはネオナチか何かだろうとか何とか思ってる人多いんですね。そうじゃないんです。レジスタンスが言いだしたんです。フランスでドイツ占領軍に対する抵抗運動をやって、ゲシュタポに逮捕されたフランス人のレジスタンスが言いだしたんです。そのレジスタンスであるラッシニエは、ユダヤ人を国外に逃がすとかそういうことしていた人で、それでゲシュタポに捕まって、ドーラ収容所という収容所とブーヘンヴァルト収容所という収容所に入れられて、そこで自分も発疹チフスにかかって、アンネ・フランクと同じように発疹チフスにかかって非常にひどい状態で終戦を迎えたということなんですけども、戦後フランスの政府は、このラッシニエのレジスタンス活動をたたえて、最高の勲章を与えているんですね。そういう人なんです。左翼です。社会主義者で、およそナチスの思想なんかとは共鳴し得るわけがない人なんですね。
ところがその人が、戦後あちこちで語られだしたガス室だとか、ユダヤ人絶滅とか、今で言うホロコーストですね。そういうことを、ちょっと待てと。自分は収容所にいたけど、これは話が違いすぎるということで、本を書いたりしだしたと。彼が初め、事実上最初の歴史家なんですね。
そういう流れがヨーロッパでもずっとあって、その後アメリカなんかにも広がっていって、その論争は続いてたんです。 
 Paul Rassinier
→WIKIPEDIA(英語版)
→WIKIPEDIA(フランス語版)
ポール・ラッシニエ ( 1906-1967 )
フランスの 平和主義者 、政治活動家、 ホロコースト疑問説の父親とみなされた作家であった 。 彼はまた反ナチの フランスの抵抗戦闘機であり、 BuchenwaldおよびMittelbau-Doraでの ドイツの 強制収容所の囚人であった。 ジャーナリストと編集者であり、政治経済学に関する数百の論文を書いていた。
 
 
ところがその論争を、とにかくまず欧米のマスコミが徹底的に無視した。

そこに加えて日本のマスコミ、アカデミズムが一つには不勉強ということもあったんですけども、全く報道してこなかった。そういうことがあったと。

私はたまたま『マルコポーロ』に記事を書いたのは、たまたま戦後50年に当たる1995年だったので、私がそのことを、結局花田編集長に頼まれて書くことになったときには、記事を読んでいただければわかりますけども、私が一番言いたかったことは、戦後50年、間、日本のマスコミ、アカデミズムがこれにだまされ続けてきたと。これをどう思うんだっていうのが、私が一番言いたかったことで、日本のマスコミ、アカデミズムに対する批判、これが私が一番言いたかったことなんですね。

 
   
  さらに言うと、これもあとで言いますけれども、95年っていうのは91年の湾岸戦争がまだ4年目で、湾岸戦争の記憶が濃い頃で、湾岸戦争における戦時報道っていうもの、私は見ていたので、戦争中の戦時報道が検証されないまま、ここまで信じられるに至ったのは、ガス室のみだということを私が言いたかった趣旨だったわけですね。

ですから主たる私のポイントはマスコミ批判であれ、アカデミズム批判だったんですが、どうもそれを知ってか知らずかマスコミは、そういう視点じゃないであるがことを、あえて言わないというところがあって、だから皆さんの関心がユダヤ人とかドイツとかそういうほうに向かうほうに誘導してると言ったら言いすぎかもしれませんけど、されてきたなと思います。私は、話には、もちろんユダヤ人もドイツ人も登場するわけですから、ユダヤ人にも関係あるし、ドイツにも関係あるけども、私が関心を持ったことは、50年間日本のマスコミはこういうことを見抜けたかったのはどういうことなんだということのほうにポイントがありました。
 
 湾岸戦争  
 

そこで、じゃあ、なぜガス室を疑うのかという理由に入っていくわけですけれども、そこでアンネ・フランクの話をまたしようと思います。

アンネ・フランクが死んだのは、ベルゲン・ベルゼンという収容所です、今申し上げたとおり。

ここはもう一度言いますけども、ドイツの北部で、デンマークに近いところにあった収容所で、戦後ドイツが分割されたときには、西ドイツの側に入ったところです。
で、この収容所、私は行ったことありませんけれど、ウィキペディアにも何でもベルゲン・ベルゼンで調べれば出てきますけれども、この収容所に、こんにち、ガス室なるものは別に公開されていません。通説側の、ガス室あった派の歴史家たちも、ベルゲン・ベルゼンにガス室があったとは言わないんですね。だからここも誤解してる人がいるので、もう一度復習みたいに言いますけれども、ガス室があったと唱える通説側の歴史家たちも、別にどこの収容所にも、みんなガス室があったなんて言ってないわけです。ガス室があったの、むしろ限られた収容所だと。さっき言った絶滅収容所、もう一度言うとポーランドにあったアウシュヴィッツ、マイダネック、ソビボル、ヘルムノ、ベルゼック、それにトレブリンカ。この六つの収容所にガス室があったと。また厳格に言うと、絶滅収容所とされないところにでも、シュトゥットホーフとかいくつかの収容所にはガス室があった、ちょっと曖昧なところがあって、オーストリアのマウトハウゼンにもあったと彼ら言ってますから、厳格にガス室があった収容所と絶滅収容所イコールではないんですけれども、ガス室があったとされる収容所はむしろ限られてるんですね、彼らの言ってること、そのまま受け入れるとしてもですね。
その中で、だからヨーロッパに、ドイツはたくさん収容所作りましたけれども、むしろガス室のない収容所のほうが多かったということは彼らの側も認めるわけです。そのベルゲン・ベルゼン、アンネ・フランクが死んだ収容所にはガス室はなかったといったのが、彼らの公式見解なわけですね。

ところがここで面白いことがあるんです。この本、ここで使いますね。こんにち、ベルゲン・ベルゼンにガス室があったと言う人はいないんですけれども、昔はこのベルゲン・ベルゼンにもガス室があったっていわれてるんですね。昔というのは戦争直後の頃です。まあ、いいや。これ、読むと時間を取っちゃうからやめますけど、東京の国会図書館で、私は古い英語の本をちょっといろいろ見て確認しましたけれども、戦後まもない頃に書かれたアメリカに出された英語の歴史書というか、当時としたら起こった直後ということになってるから時事問題に近いナチスドイツにおけるユダヤ人迫害に関する本を読むと、こんなこと書いてあるんですね。記憶で確かだから言いますけども、ベルゲン・ベルゼンの司令官クレーマーは、毎日ユダヤ人たちがガス室に入れられていくのを、音楽を聞きながら眺めたとか書いてあるわけです。毎日数千人のユダヤ人がこの収容所では殺されたって書いてある。それでその司令官が残酷な男で、ユダヤ人がガス室に入れられていくのを楽隊に音楽を奏せながら、楽しんで見ていたなんてことが、英語で書いてあるわけなんですね。歴史書、ちゃんとしたアカデミックな本にですよ。

ところが今はベルゲン・ベルゼンにガス室があったなんて言う歴史家いないわけですよ。だとすると、戦後まもない頃にいわれていたベルゲン・ベルゼンで毎日数千人のユダヤ人がガス室で殺されていたってこの話はいったい何だったんでしょうか、皆さん。おかしいと思いませんか。もし戦争直後にいわれてた話が本当ならば、今だってそれは語られるはずですよね。ところが今は誰も通説側の歴史家、ベルゲン・ベルゼンにガス室があったなんて言わないんですよ。実際ベルゲン・ベルゼン行ってもガス室なんて公開されていないわけですね。ということは、どういうことか。戦後まもない頃にいわれていたベルゲン・ベルゼンでのガス室大量殺人というのは、誰が言いだしたのか知りませんけど、誰か言った人がいるわけですよね。その人の言ったことは、うそだったっていうことですよね。本当ならば今だって、それ何も変更する必要ないから、ベルゲン・ベルゼンのガス室堂々と言ってればいいわけだし、それに本当にあったんならば証拠としてのガス室あるはずですから、それがベルゲン・ベルゼンで公開されてておかしくないわけです。

ところが今、ベルゲン・ベルゼンガス室があったなんていう歴史家はいません。この本の中でもちょっと引用しましたけども、アンネ・フランクについての本を読んでも、アンネ・フランクに関する本たくさんありますけれども、調べましたけれども、当たり前、当然というか、アンネ・フランクが最後に死んだベルゲン・ベルゼンにガス室があったなんて書いてある本はなくて、はっきりここにはガス室はなかったかって書いてます。戦後直後にはベルゲン・ベルゼンでの毎日大量のガス室大量殺人っていうことが堂々と言われていたのに、今は、どの本もそんなこと書いてないんです。話が変わってるんですね。話が変わっている。

つまりもう一度言いますけど、ナチスドイツがユダヤ人を迫害したの事実です。これは別に明らかで何も私それを疑ってないし、それを正当化するわけでも何でもないけれど、話が変わってるっていうのおかしいじゃないですか。
だからこれは政治的にどちらが正しいとか悪いとか話じゃなくて、何が事実なのかと考えたときには当然検証されてしかるべきことであるわけですね。
これはだから右とか左とか、反ユダヤとか親ドイツとかそういう話じゃなくて、報道の問題として、じゃあ当時の報道っていったい何だったのかという問題に通じてくるわけです。実はこのベルゲン・ベルゼンだけじゃないんですね。こういう問題があるのは。


 
   
   
同じようにドイツにあった収容所で、例えばダッハウ収容所っていう収容所があります。
名前皆さんご存じかもしれませんけど、ミュンヘンの近くにある収容所で、私もここも、ダッハウも行ったことないですけれども、今も公開されていて、インターネットでダッハウって調べると、ダッハウ訪れた日本人の人たちがTwitterとかで写真を出してますから、ご覧になったらいいと思うんですけれども、このダッハウ収容所というところは、戦後まもない時期にアメリカ軍が来て、占領した。

ベルゲン・ベルゼンはイギリス軍だったんですけど、ダッハウはアメリカ軍がそこに到着してみて、ナチスドイツの悲惨な収容所ということで、大々的に発表報道された収容所なんですね。ベルゲン・ベルゼンでもダッハウでも、イギリス軍にアメリカ軍がそこに1945年の春に到達したときに、そこでたくさんのおびただしい死体が発見されました。これは事実です。映像もあります。これ事実なんです。
それが皆さんがよく見るNHKの『映像の世紀』か何かでよく出てくる悲惨な映像ですね。
これはもちろん本当に悲惨なことで、アメリカ軍やイギリス軍はそこでおびただしい数の死体を発見したわけです。




ダッハウ強制収容所
→WIKIPEDIA
(独語:Konzentrationslager Dachau)
ドイツ・バイエルン州・ミュンヘンの北西15キロほどのところにある都市ダッハウに存在したナチス・ドイツの強制収容所である[1]。ナチスの強制収容所の中ではオラニエンブルク強制収容所と並んで最も古い強制収容所と言われ、後に創設された多くの強制収容所のモデルとなった[2][3]。「ダハウ強制収容所」と書かれる事もある[4]。



死の列車の無蓋車の一つに横たわる死体



ベルゲン・ベルゼン強制収容所
→WIKIPEDIA
(独: Konzentrationslager Bergen-Belsen)




解放後にイギリス軍が撮影した餓死した囚人の写真。


ブルドーザーで死体を片付ける英軍兵士




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囚人の大量増加と大量死


ベルゲン・ベルゼンは「休養収容所」などと呼ばれていながら、おびただしい数の死者を出した。死因として最も多かったのは与えられる食料の少なさによる衰弱死であった[9]。また病死も非常に多かった。1944年3月から10月ぐらいにかけて収容所では結核が流行していた。ついで10月から1945年2月ぐらいにかけて赤痢が流行した。その後収容所が解放されるまでの間チフスが流行していた[9]。最終的にはチフスに罹患していない囚人の方が少数派となっていたという[10]。他にも急性肺疾患、疥癬、丹毒、ジフテリア、ポリオ、脳炎、外科疾患、静脈炎などが流行していた[9]。

拘留者が急増したこともその原因である。1944年12月2日の時点でベルゲン=ベルゼンの囚人数は1万5227人だったのだが、1945年3月には5万人にも達している[7]。これは戦争末期の他の強制収容所の撤収にともなう大量移送が原因であった[11][12]。しかし本来ベルゲン=ベルゼンにこんな大量の囚人を置いておける余裕は無かった[13]。

限界を超えた人数が収容されたために管理がほとんど行われず、1944年以降は戦争末期のために食糧事情がまったく改善されないため、収容の実態は囚人を飢餓状態に置いて餓死や病死を誘う事しかしていない[14]。

1945年4月1日には死体焼却炉が止められた。毎日量産される死体に対してその処理能力をとうに超えていたからである。代わりに穴が次々と掘られ、まだ健康な囚人たちが収容所内に転がる死体を集めてその穴まで運んでいった[15]。

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解放


1945年4月5日には収容所のSS隊員たちが収容者に関する書類などを焼却して証拠隠滅を行った。4月12日にSSはドイツ国防軍の指揮下にあるハンガリー人部隊にベルゲン=ベルゼンの警備をゆだね、SS隊員たちは収容所から撤退していった[15]。国防軍将校が接近してきたイギリス軍と交渉にあたり、その合意に基づいて収容所は非武装化された[15]。そして4月15日に英軍が戦闘を交えることなくベルゲン=ベルゼン強制収容所を解放した[18][17]。

英軍将校ピーター・クームズは収容所の状況を見て「誰もがこの場所に来て、彼らの顔を、歩き方を、弱りきった動きを見るべきだと思う。一日に300人ものユダヤ人が死んでいくが、彼らを救う手立ては何もない。もう手遅れだったのだ。小屋の側にはたくさんの死体が転がっている。囚人たちはせめて太陽の下で死のうと小屋から最後の力を振り絞って出てくる。私は最後の弱々しい「旅」をする彼らの姿を見ていることしかできなかった。」と書き送った[19]。

大多数の囚人はチフスを罹患していたため、解放後も隔離のため囚人たちは5月1日まで収容所に留め置かれた[20]。英軍は至急ベルゲンに看護組織を設置したものの、チフスの猛威は収まらず、英軍が収容所を解放した4月15日から6月20日の間にも1万5000人もの囚人が死亡している[20]。5月1日から撤去が始まり、生存者たちは3キロ先の戦車部隊学校へ移された[19]。

5月20日に英軍は伝染病拡散を防ぐため、火炎放射器で収容所の建物を全て焼き払った[20]。穴に埋められた囚人たちの遺体もブルドーザーで掘り返された[19]。

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ところがこのダッハウについても同じような問題があって、戦後まもない時期、例えばもしかして今日ここに『夜と霧』持ってきた人いませんか。 

ヴィクトール・フランクル
→WIKIPEDIA
(Viktor Frank)
(1905-1997)
オーストリアの精神科医、心理学者。著作は多数あり日本語訳も多く重版されており、特に『夜と霧』で知られる。

ヴィクトール・フランクル『夜と霧』
→WIKIPEDIA
原文のタイトルは…trotzdem Ja zum Leben sagen:Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager
(Kösel-Verlag, München 1977) 、日本語訳すると『それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する』となる。 日本語題「夜と霧」は夜陰に乗じ、霧に紛れて人々が連れ去られ消された歴史的暗部を比喩した。
1946年に出版されたヴィクトール・フランクルの強制収容所経験に基づいた書籍作品である。
日本語訳はみすず書房が出版している。




 
 
 
女性A います。
 
   
   
西岡 います?旧版持ってます?
   
 
女性A はい。 
   
  西岡 『夜と霧』の旧版、新版、新しいバージョンと古いバージョンがあるんですけど、古いのほうのバージョン読むと、そこの解説のところに、非常に今、見ると、おや?と思うことが書いてある。それはニュールンベルグ裁判において、連合国側の検事が言ってることなんです。ちょっと待ってくださいね。ここにベストセラーの『夜と霧』があります。ちょっと待ってください。
 
 
KINDLE版2014年


『夜と霧』新版 2002年



『夜と霧』旧版1985年版




『夜と霧』旧版1961年版



→WIKIPEDIA
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多くの原文改訂が行われた新版が出版された事で(若い世代向けに)2002年(平成14年)に新訳版が発行された。従来の霜山徳爾による翻訳版も発売中である。
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ニュールンベルグ裁判

 
 
(間) 
   
 
これちょっと語り手が曖昧に書いてある。この『夜と霧』の旧版の、ちょっと細かい字読めない。8ページですね。8ページに書いてあるところ読むと、こんなこと書いてあるんですよ。ちょっと待ってください。本当最近(?)目が弱くなってきたな。


戦争が布告されたときには、ドイツ国内には、八つの強制収容所があり、合わせて2万人の囚人が収容されていた。続く2年の間に、さらにいくつかの収容所が建てられたが、その中には以下の呼名で知られていたものがある。
アウシュヴィッツ、
ベルゼン、
ブーヘンヴァルト、
ホッセンベルグ(?)、
マウトハウゼン、
ナッツヴァイラー、
ノイエンガン、
ラーフェンスブリュック、
ザクセンハウゼンである。

待って。ここじゃないな。ありがとう。眼鏡、字が細かくて。あった。これでいいですか。

これについて英帝国の主席検事ハートレイ・ショークロス卿が大物戦犯の裁判において述べたが、彼はそれを次のような言葉で結んだ。

この『夜と霧』の9ページです。いいですか。

1200万人に上る殺人、これによってヨーロッパのユダヤ人の3分の2が殺されたのであります。それは殺人者たち自身の計算でも、600万人以上を数えています。そしてこの殺人はまるで大量殺人工場のように
アウシュヴィッツをはじめ、
ダッハウ、
トレブリンカ、
ブーヘンヴァルト、
マウトハウゼン、
マイダネク、
ウラーニンブルグ(?)などのガス室やかまどで行われたのであります。

ニュールンベルグ裁判の陳述で、検事がですね。検事ですよ。検事がここにはっきりとダッハウを、ガス室などで殺された収容所に挙げてるわけですね。

実際今日持ってきませんでしたけども、ニュールンベルグ裁判に提出された自白調書のコピーまで私持ってますけれども、ダッハウのガス室で毎日ユダヤ人が殺されるの見たなんていう証言がニュールンベルグ裁判に出てます。フランツブラッハ(?)というチェコのユダヤ人の医者で、私は医者だったので毎日検死をやらされてましたなんて書いてある証言が、ニュールンベルグ裁判に証言として提出されたりしてる。戦争直後には、さっきのブーヘンヴァルト収容所と同時に、ダッハウ収容所でもガス室によるユダヤ人の処刑が毎日行われたっていうことになってたんですね。私は検死をしましたなんていう証言まであったわけです。
で、それから『マルコポーロ』でも取り上げましたけど、アメリカ軍がそのガス室だという写真まで公開されてたんですね。

ところが、今、ダッハウでガス室による殺人が行われたとは歴史家たち言わないんですよ。調べるとわかりますけれど、アウシュヴィッツの収容所、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所で私が買ってきた英語の本にも、ダッハウで行われてないということが書いてある。ガス室があったと唱える公式見解を唱える歴史家たち自身が、こんにちでは、ダッハウではガス室の殺人は行われていなかったと認めてるとかそう言ってるわけですね。

これもおかしいわけです。さっきのベルゲン・ベルゼンもそうですけども、ダッハウでも昔はガス室による大量殺人の目撃証言とかが堂々と語られていたのに、証拠写真と称するものまであったのに、今ではそこにはガス室はなかった。使われていなかった、建設中だったとかいろんなこと言うわけですけども、とにかくガス室による殺人が行われてなかったって彼ら自身が認めてるわけですね。

つまりここでも話が変わってるわけです。つまり、一般的にいろんな刑事事件における冤罪の問題なんかに関心を持ってる方だとわかると思いますけども、証言が信用できるかっていうこと一つのポイントは証言に一貫性があるかどうかということですね。同じことずっと一貫してる証言っていうのは信用性があるけども、変わる証言というのは信用できないというのは刑事裁判における一つの法則みたいなものですけれども、このホロコーストに関する話というのは、話が大きく変わってるわけです。 
  アウシュヴィッツ、
ベルゼン、
ブーヘンヴァルト、
ホッセンベルグ(?)、
マウトハウゼン、
ナッツヴァイラー、
ノイエンガン、
ラーフェンスブリュック、
ザクセンハウゼン



アウシュヴィッツをはじめ、
ダッハウ、
トレブリンカ、
ブーヘンヴァルト、
マウトハウゼン、
マイダネク、
ウラーニンブルグ(?)



フランツブラッハ

 
  昔はドイツ本国(?)、西部戦線でイギリス軍にアメリカ軍が足を入れたベルゲン・ベルゼンにはダッハウでもガス室による殺人が行われていたと言われて、何とニュールンベルグ裁判での検事の陳述の中でも証拠とされた自白調書にもそんなこと書かれてあって、あと一般的な書物でも書かれています。

それから映画にもなってます。『ニュールンベルグ裁判』という映画があってDVDで見れますから見ていただくとわかるんですけども、ダッハウのガス室の情景とか出てきます。ダッハウのガス室、当たり前のように言われていたんですね。

ところが今では言われない。なぜなのか。
彼らは、そこ、なぜ変わってきたことちゃんと説明しないんですから、容易に理解できることは、ベルゲン・ベルゼンにしても、ダッハウにしても、要する戦後西ドイツの領域に入ったところ、ここはジャーナリストであれ、一般人であれ見に行くことができたところで、行けば、え?ガス室ってどこにあるの?とかいうことにもなってくるし、その証言についても矛盾が出てくれば議論することが一応できる、そういう西側にあった収容所なんですね。
ところがそういうふうにして戦後だんだん話が変わっていって、ベルゲン・ベルゼンにあったはずのガス室はなかったことになって、ダッハウにあったはずのガス室もなかったことにどんどん話が変わってくる。  

 映画『ニュールンベルグ裁判』(Judgment at Nuremberg)
→WIKIPEDIA
1961年のアメリカ映画。
ナチス・ドイツが第二次世界大戦で犯した大罪や戦犯を裁いたニュルンベルク裁判を基に、スペンサー・トレイシー、バート・ランカスター、リチャード・ウィドマーク、マクシミリアン・シェル、マレーネ・ディートリヒ、ジュディ・ガーランド、モンゴメリー・クリフトら豪華スターを迎えて、スタンリー・クレイマー監督によって映画化された作品。

ドイツ側の弁護人を演じたマクシミリアン・シェルはこの映画で第34回アカデミー賞主演男優賞に輝いたのを始めとして、スペンサー・トレイシーが主演男優賞、モンゴメリー・クリフトが助演男優賞、ジュディ・ガーランドが助演女優賞にそれぞれノミネートされるなど、出演俳優の演技も高く評価された。他に脚色賞にも輝いたが、作品賞の受賞は逃した。




TVドラマ『ニュルンベルク軍事裁判』(Nuremberg)
→WIKIPEDIA
同名の小説を原作にした2000年のアメリカ・カナダ製作の海外ドラマである。前編後編各90分の計180分で構成され、ニュルンベルク裁判を題材にしている。エミー賞などテレビ映画部門で多数の賞を獲得している。







 
 

ほかにもブーヘンヴァルトもそうです。ガス室があったとされるところで、なかったっていうことになってくるわけですが、なぜか旧ソ連に支配されていたポーランドの収容所に関しては、話がそのまんま維持されてるっていうことなんですね。
つまり西側の人間が自由に調査できない。取材したり自由に活動できないところにあった収容所に関しては、ガス室の話が温存されたっていうことなんですね、まずは。ここにまず注目してほしい。

そうすると、今もアウシュヴィッツでは、ガス室と称するものが展示されていますけど、あれは本当なのか。
ドイツのことわざに、一度うそをついた者を信じてはならないという言葉があるそうですけれども、ダッハウやベルゲン・ベルゼンやブーヘンヴァルトに関しては、ガス室があると言いながら、いつのまにかありませんでしたという話に変わっている。
じゃあ本当に共産圏に組み込まれたアウシュヴィッツやマイダニックにガス室があった話は本当なのかということ、少なくとも検証してみる意味というのはあるだろうと。
否定まで私しません。だけど検証されて、これだけでも既に疑問を持ってもおかしくはないだろうということは皆さん、わかっていただけるんじゃないかと思います。


   
 


本当にドイツはユダヤ人を絶滅しようとしたのかっていうことが一つ。

それから本当にガス室があったのかということがもう一つ。

この二つです。

別に差別迫害を全否定するんじゃなくて、この二つに関してはクエスチョンを投げかけてるわけですね。


 
   
 

そこでまたアンネ・フランクの話に戻ります。
私が言ってきたことを要約すると、ドイツがユダヤ人を迫害したことは明らかです。それ何も否定していないけれども、もちろんそれ、正当化するわけでもないけれども、

本当にドイツはユダヤ人を絶滅しようとしたのかっていうことが一つ。

それから本当にガス室があったのかということがもう一つ。

この二つです。

別に差別迫害を全否定するんじゃなくて、この二つに関してはクエスチョンを投げかけてるわけですね。クエスチョン投げかけたときに、私が言うのは、あるのは証言だけだと。客観的証拠がないっていうこと私はまず言うわけです。

   
  そうすると中にはびっくりする人がいて、証拠がないですって。あの死体の写真は何なんですかって、みんな言うわけなんです。 

そうすると、そこでさっきの話を思い出してほしいんですけども、NHKやTBSによく出てくる死体の山の写真、やせ細った本当に悲惨な死体がたくさん並んでる収容所の写真、動画がありますよね。それをブルドーザーがどんどん穴の中に落としていくっていうの皆さん見たことあると思うんですけれども、あれはどこで撮影されたか、皆さんわかってますか。それを確認しないで、あれを証拠と言っちゃいけないんですよ。

あれは圧倒的に、私も見る機会があるときはいつも見てますけれども、ベルゲン・ベルゼンで撮影された映像なんですよ。イギリス軍が撮影した映像で、イギリス軍が1945年の春に、ベルゲン・ベルゼン収容所に足を踏み入れて死体を発見した。そこにたくさんの死体があったことは事実で、それは本当に悲惨なことです。そこで死んだユダヤ人の方って本当のお気の毒で、それは本当に悲惨なことです。

だけれども、ちょっと冷静に見てほしい。ベルゲン・ベルゼンで撮影された死体の山なんですね。ベルゲン・ベルゼンっていうのは、こんにち誰もガス室があったなんて言っていない収容所ですよね。ということは、そのベルゲン・ベルゼンで撮影された、イギリス軍が撮影した動画に、ガス室で殺された死体があるわけがないわけです。悲惨ですよ。悲惨だけれども、彼ら自身がベルゲン・ベルゼンにはガス室なかったって今では認めてるわけですから、昔は言ってましたけど、今は認めてるんだから、ベルゲン・ベルゼンで撮影された死体の写真、映像、どんなに悲惨であっても、それはガス室が存在した証拠ではないわけです。

ところが、ちょっとここで思い起こしてほしいんですけど、私たちが何かホロコーストに関するテレビ番組とかNHKや特にTBSなんかよくやってる『映像の世紀』とか見てるときには、何もキャプションもつかずに死体の映像が出てくるわけです。ベルゲン・ベルゼンで撮したということすら出さないですね、NHKもTBSも。そういう死体の山のあとに、アウシュヴィッツの話か何かをするわけですよ。そうすると見てるほうは、まず多くの人はこれはベルゲン・ベルゼンという収容所だと思わないでアウシュヴィッツの写真なんだと思ってる。実際私の周りでも聞いてみると、あれアウシュヴィッツの映像じゃないんですかなんて言う方が多くて、それはだまされてる人が悪いんじゃなくて、テレビ局がいつもそうするからです。キャプションをつけずに見せるわけです。キャプションをつけずに映像を流して、そしてナレーターはアウシュヴィッツの話なんかしてるから、アウシュヴィッツって、こんなとこだったのかと思うわけですよね。これ映像トリックもいいとこです。

   
 
私が『マルコポーロ』に記事を書いたときには、それを非常に比較して言ったのは、当時はまだ覚えてる人が多かったんで、今覚えてる人が少なくなっちゃったんですけども、これとそっくりじゃないかと僕が言ったことがあるのが、1991年に湾岸戦争が起きたときに、戦争が起きてまもない時期に、皆さん、覚えてるでしょうか。油まみれになったミズドリの映像が、一部のテレビで流れたんですね。面白いですね。これもNHKとTBSらしいですね。フジテレビはやんなかったってフジテレビの人が胸張ってましたけど、イラクがこんなことをしたと。イラクがペルシャ湾に意図的に原油を放出して環境汚染を起こしてると。そのおかげでこんな罪のないミズドリまでこんな姿になったっていう映像が流れたんですね。私、その直後にラジオのニュース聞いてたら、それでアメリカではすごい怒りの声が挙がって、イラクは何てひどいことをするんだ。そのときに私覚えてますけれども、これイラクに対して戦術核兵器を使ってもいいんじゃないかという声が挙がったそうです。だから映像でミズドリが油まみれになってる姿を見せられると、人間の気持ちとしては、そこまでいってしまうということだったんですが、まもなくどうもおかしいと、どこで撮影されたんだとかいろいろ調べていくと、海流の速さなんかからして、イラクが放出したとしても、開戦直後にこんなサウジアラビアの海岸まで原油が流れてくるだろうかとかいろいろ言われだして、そのうちに、その年の終わり頃でしたけれども、これはテレビ朝日のお手柄だったと思いますけども、テレビ朝日のグループたちがそれを検証したら、何とその油というのは、イラクが放出したんじゃなくて、アメリカの空爆で流れ出した石油でミズドリはそうなったんだと。その映像を開戦直後に、いかにもイラクがやったかのように見せられたんで、世論が戦術核兵器使ってもいいんじゃないかってとこまで誘導されたということがあったわけですね。
 
 油まみれになったミズドリの映像  
   


私は『マルコポーロ』の記事の中でも書きましたけれども、ガス室で殺された死体ではない死体を、あたかもガス室で殺された死体のようにやってくるテレビの手法というのは、この湾岸戦争の手法のときの、このミズドリの手法とは同じではないかと。

そのことを私が言って、そのことに非常に共感してくれたのが木村愛二さんという左翼護憲派のばりばりのジャーナリストの方がいて、湾岸戦争のこと非常に追いかけてたジャーナリストですけれども、その木村さんがそのとおりだということ言ってくださって、ご自分の本の中でも、やっぱり湾岸戦争の報道操作とこれがいかに似てるかということをおっしゃってる。

つまり死体の映像を説明もしないで、ガス室の話をしてるときに流せば、見てるほうはガス室の犠牲者と思っちゃうわけです。それを私たち何十年間も刷り込まれてきたわけですよ。こういうこと言うのはマスコミへの批判であって、別にナチスドイツを擁護するとかそういうことじゃないわけですね。この報道おかしいじゃないかと言ってるわけなんですけれども、それをナチス礼賛だとか言って、自分たちの報道の悪いところを指摘されると、そうやって話をごまかそうとするのか、いまだにそこがわかってない方がいるのはとても残念なことです。そこで、また話を戻します。ベルゲン・ベルゼン収容所はそういうことでガス室がなかったということで、今はすべての歴史家が一致している収容所です。ところがそこで撮影された死体の映像を、今も、マスコミはあたかもガス室の犠牲者だったかのように使うことがあって、そのことでみんな、あの映像が決定的証拠じゃないかとか何とか思ってる方が多いんですが、それはガス室がない収容所で撮影された死体なのだから、いかに悲惨な映像だったとはいえガス室が存在した証拠ではないんですね。


 
木村愛二
 
 西岡




そこで医学的なことをお話しします。これは医学論文にもなっていて、明らかに医学史上の事実なんですけれども、第二次世界大戦末期にドイツ及びドイツ占領下のポーランドで、特に収容所で発疹チフスという病気が大発生しました。発疹チフス、腸チフスは違います。発疹チフスというのは、リケッチアという細菌より小さい微生物が起こす感染症で、これはシラミによって媒介されます。これは一般に過去の歴史を見ると、戦争が起こったときに発生したことがとても多い病気なんですね。

皆さんの中で、もしトルストイの『戦争と平和』を読んだことがある方がいらしたら、もしかしたらご記憶かもしれないけど、ナポレオンがロシアに攻め込んで敗退していくときに、敗退していく中で、まさにこれもポーランドだと思うんだけれども、フランス軍の中で発疹チフスが発生したという意味のことが出てくる場面があります。

それから少しあとになってアメリカの南北戦争でも、発疹チフスの発生が起こっているようですね。アメリカ軍は、アメリカ軍の兵隊さんたちは頭を丸刈りにします。あれはなぜかっていうと、南北戦争での発疹チフスの発生が一つの教訓であったらしくて、髪を刈るということが、シラミの媒介を少しでも予防するのに役立つということでやっているんだそうです。

それから日本でも、終戦直後に上野の地下道の戦災孤児たちの間で発疹チフス出たということも読んでますし、満州でソ連の収容所に入れられた日本人たちの間でも、発疹チフスが発生したことがある。

そういうふうに戦争のときに大勢の人たちが狭いとこに入れられたりして、衣服を交換することもできない。お風呂にも入れないというようなときに、発疹チフスはよく発生する。

そしてさらにここがポイントなんですけど、冬に発生しやすいんですね。過去の歴史の中でも冬に発生しやすい。

医学論文にも書いてあるものがありますが、とにかく1945年ドイツが敗退していくときには、ドイツ及びその占領地の国内は空爆や戦争で大混乱の状態だったわけですが、それがまた、たまたま冬だったわけです。さらに言うと、だめ押しみたいに言いますけれども、アウシュヴィッツなどがあるポーランド、特に南部というのは昔から、発疹チフスの発生繰り返してる土地で、トルストイの『戦争と平和』にも出てきますけれども、その地域は昔から発疹チフスよく起こして、その地域に冬で、しかも収容所にたくさんのユダヤ人がいたということですから、なるほどそれで発疹チフスが大発生したということは、本当に悲劇的なことですけども、その原因というのは理解できることなんですね。

そして、そういう人たちが、これもあとにふれますけども、戦争末期にソ連軍が東からドイツに向かって攻めてくるときに、アウシュヴィッツなどにいたユダヤ人の多くが、ドイツ本国に移送されるんですね。一旦アウシュヴィッツなどに収容された人たちが、ドイツ本国に戻される。実はアンネ・フランクもその1人で、彼女の日記の真贋とかは、私ここで論じませんけども、とにかくアムステルダムでドイツ当局に拘束されて、それで一旦、直ちにかな。最初はとにかく彼女たちもポーランドに移送されるわけです。なぜポーランドかというとこ、またあとで話しますが、とにかくアウシュヴィッツに一度送られるんですね、アンネ・フランクは。

ところが、ここ、アンネ・フランクの読者たちが、なかなかこの意味を考えようとしないようなんですが、戦争末期にアンネ・フランクはソ連軍が迫ってきたときに、アウシュヴィッツからもう一回西に戻されるんですね。これはなぜかというの実は考える必要あって、とても重要なポイントなんですが、とにかく戻される。戻されるんですが、それアンネだけじゃなくてたくさんのユダヤ人たちが、アウシュヴィッツからドイツ本国のベルゲン・ベルゼンやダッハウに逆移送されるわけです。

そのことによって、1945年の冬にポーランドで大発生した発疹チフスが、ドイツ本国の収容所に拡大していったと。最初だからポーランド南部で冬に発生した発疹チフスが、ドイツ本国にも波及したということになって、戦争末期、1945年の春頃には、ベルゲン・ベルゼンでも発疹チフスが大発生したと。それによってアンネ・フランクとほかの人たちは命を落としたんだろうと。誠に悲劇的なことなんですが、医学的に、医学史的に見たときに、これでおかしなことは別に何もないわけです。



 腸チフス

リケッチア


トルストイの『戦争と平和』
 
   
ガス室がなぜ不合理かっていうことまたあとでお話ししますけども、まずこの発疹チフスという病気が大発生したということ、これ自体は事実ですから、これ自体は事実で誰も否定していませんから。

ただこれをまず覚えておいてほしいんですね。で、先ほどの映像の話にちょっと戻るんですけども、ベルゲン・ベルゼンにはガス室はありません。誰もあるってなんて言ってませんから。

でもそこで発見された死体を、あたかも証拠のように戦後ずっと西側メディアは取り上げてきたわけです。

だからみんな死体という証拠があるじゃないかと言うから、ガス室大量殺人の証拠がないなんて言うと、何をばかなっていうことを言う方が多いんですが、死体は結論から言うと、発疹チフスの死体はたくさん確認されているんですが、何らかの毒物で死んだ死体は確認されてないんですね。

この話をちょっとします。もう亡くなってるはずですけれども、戦争末期にアメリカ軍に従軍して、そこで発見される死体を解剖するという仕事をしたアメリカ人の医師がいました。チャールズ・ラーソンという医師で、病理学と法医学の両方の専門家です。病理学っていうのは、患者さんが亡くなったときに、例えばがんの患者さんが亡くなったら、がんがどこまで広がっていたかとか調べて、あるいは原因がわからない死亡が起こったときに、その原因を検討するようなことで解剖を行う仕事ですね。法医学はそれと同じように解剖をしますが、むしろこれは事故死か他殺かとかそういう司法的な問題にかかわることで解剖する分野でちょっと違いますが、解剖して死因を確かめるというのは同じなので、このラーソン先生という人は、アメリカで優れた病理学と法医学両方やってた人で、だからこそアメリカ軍は彼を従軍医師に選んだわけですね。

1980年アメリカの新聞にこのラーソン医師へのインタビューが載ったことがあるんです。そのラーソン医師が当時のこと回想しているんですけれども、その中で、ラーソン医師がまずこんなこと言ってるんですね。
当時このような解剖をやっていたのは私1人だけだったはずだった。連合軍の中でこういうふうに収容所で、死体を医学的にちゃんと検討した人は、ラーソンしかいなかったということです。そのうえで150体ぐらい解剖したと言ってるわけですね。ダッハウとか、ベルゲン・ベルゼンは違ったかな。そういう西側の西部戦線における収容所の複数の収容所で発見された死体を解剖したと。そして発疹チフスがたくさんいたと。結核も一部にはいたとか、そういうこと言ってるんですね。

ところが、そん中で彼はこんなこと言ってるんですね。中毒による死体は1体もなかった。中毒って英語でpoisoningですけども、何らかの毒物で死んだことが確認できた死体は1体もなかったと。つまりアウシュヴィッツでは青酸ガスを使って人を殺したといわれてる。アウシュヴィッツは東部戦線ですからラーソンの守備外ですけども、当初は例えばダッハウでも、青酸ガスによる毒ガス、ガス室という話があったわけですから、そこは当然検討されるわけなんですが、ラーソン医師は中毒による死体は一つもなかったと。それ彼は解剖しただけじゃなくて、死体から取ったサンプルをパリのパスツール研究所に送って化学分析まで依頼してる。そういうことしてるんだけれども、中毒が証明された死体は1体もなかったと。そしてここが注目すべき点なんです。1体もそういう毒物による中毒の死体は発見できなかったんだが、上官からそれを言ってはならないと言われた。これ、どう思いますか。つまり法医学者が、ガス室ならば毒物で死んでるわけですから、通説が主張してるのは青酸ガスか、一酸化炭素、どっちかだというんですけど、そういう中毒の死体は1体も確認できなかったと。法医学の専門家が解剖したうえでそう言ってるわけですね。しかも彼は自分以外には法医学者はいなかったと言ってるわけですから、証拠ないんですね、死体という意味でも。まずベルゲン・ベルゼンでの死体の映像が証拠であるわけがないんですが、それ以外の収容所でも解剖したのは、彼1人で、そのたった1人の彼であるチャールズ・ラーソン医師は、中毒による死体1体も確認してないと言ってるわけですから、証拠としての死体というもの確認されていなかったわけなんですね。
 チャールズ・ラーソン  
 
そして、ここにもうだめ押しみたいな話があるんですけれども、このことがだから1980年ぐらいからわかってきた。もともと少なくとも西部戦線におけるガス室による処刑の証拠というのがないということはいわれていたわけですけれども、1980年代にカナダで驚くべき裁判が行われたんですね。
その裁判について、今これから話しますけども、1985年に、ある裁判の法定でラウル・ヒルバーグといって、ご存じの方いらっしゃいますかね。ラウル・ヒルバーグといって、有名な歴史家です。ラウル・ヒルバーグといって1961年に、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』という日本語の題名ですね。そういう大著を書いた歴史家で、戦後これが一番権威ある歴史書とされてきたんじゃないかな。大変権威ある通説側の、ガス室あった派の大御所、中心的な歴史家が法定で問われたんですね。あなたはこういう本を書いてるけれども、解剖によってガス室で殺されたことが確認されたという解剖の医学的報告をご存じですかと尋ねられて、宣誓証言です。法定ですから、うそは言えないわけですが、そこでソ連が主張したあるレポートがあるんですけども、それ以外には一つも知らないと言った。

ソ連が言ったそのレポートっていうのは、あとで言いますけども、全く医学的記述のないただ一方的な主張で、証拠能力全然ないんですけども、それ以外の1体にも(?)ない。つまりガス室による大量殺人の本を書いた大御所の歴史家ラウル・ヒルバーグ自身が、そういう解剖報告は知らないと言ってる。つまり実際に解剖をしたチャールズ・ラーソンもガス室によった死体は1体も確認してないと言ってるし、そのうえで通説側の歴史家も1985年に、私も知らないと言ってる。こうすると、ガス室で殺されたことを医学的に証明した死体っていうのが、要するにないわけですよ。そうすると証拠がないわけですね。ガス室で人が殺されたという証拠は。ガス室そのものの証拠能力も全然ないのあとで言いますけれども、まずとにかく証拠としての、殺人事件で言えば、死体が確認されてない殺人事件で立件しようとしてるようなことだったわけですね。

ところがこういう実態ということも知らされないで、私たちはベルゲン・ベルゼンの病死者の死体をNHKやTBSに何度も見せられて、証拠があると思い込まされてきたということが証拠の不在ということになるわけです。

   
  その裁判の話をちょっとしますけれども、その裁判は、カナダにツンデルというドイツ人が住んでたんですね。その人は戦後ドイツに生まれた人で、グラフィックデザイナーで広告の仕事をしていたんですが、カナダに住んでいたと。戦後教育受けた人だから、もちろんガス室によるユダヤ人殺人全く信じて疑わなかったんだけれども、カナダに来て、これに疑問を投げかけるある英語のパンフレットを読むわけです。

それは600万人は本当に死んだかという題名のパンフレットで、僕も読みましたけども、それを読んだら、いわれてきたガス室大量殺人の話に全く根拠がないということがわかって彼は大変驚いて、それをいろいろな人に知らせようとして、僕みたいなことをやったわけですが、そのパンフレットを、自分のポケットマネーでドイツや、あるいはカナダの人もいたと思いますけど、いろんな人に郵便、ダイレクトメールで送ったんですね。そういう活動をした。

ところがそれに反発したサビーネ・サイトロン(サブリナ・シトロン?)というユダヤ人の女性がいて、もちろん彼女のバックには、シオニスト系の団体があったわけですが、そのツンデルのダイレクトメールの活動をやめさせようとしたわけです。

当時のカナダの刑法に、こんな条項があったんですね。虚偽情報の禁止といって、虚偽の情報を流布してはならないというのが、当時のカナダの刑法にはあったんですね。それに違反すると。
だからカナダの郵便当局は、ツンデルが郵便を出すのを止めるべきであって彼が出す郵便を配達してはならないと訴えを起こしたわけです。

そうするとこれをカナダはトロントの地方裁判所にサビーネ・サイトロンの側が出したわけですけれども、そうするとここで裁判が始まったわけですが、これが前代未聞の裁判になった。
なぜ前代未聞かというと、そのパンフレットの内容が虚偽情報なのかということが争点になるわけですね。
つまりいわれてきた、いわゆるホロコーストという歴史に疑問を投げかけるパンフレット、それを流布したから虚偽情報だと言ってるわけなんですけど、じゃあ、そのパンフレットの内容は本当に虚偽情報なのかということが裁判で争われることになったわけです。つまりアウシュヴィッツその他の収容所でガス室で人間が殺されたという話が本当だったのかどうかが法定で争われるということになったわけですね。驚くべき裁判が始まったわけです。これを通称ツンデル裁判と呼んでますけれども、最終的にはカナダの最高裁でツンデル無罪になるんですね。それなぜかというと、理由はカナダの最高裁は事実認定避けたんですけれども、この虚偽情報の禁止が表現の自由に反すると、カナダの憲法の反すると。だからこの刑法の規定自体を廃止させて、そしてツンデルが無罪になったということですから、司法的には彼の大勝利なんですけれども、それはともかくとして、裁判の結末はともかくとして、その裁判において、そのパンフレットの内容が真実か虚偽かということが論争されたので、大変なことになったわけです。つまり双方が双方の主張を裏づける証人を出してくるわけです。

例えばサビーネ・サイトロンの側は、ガス室があったことは明らかだということで、当時のアウシュヴィッツにいらした元収容者の人間を出してくるわけです。私はそこにいたっていうような人を出してくるわけ。
それから歴史家を出してくるわけです。それがまさにラウル・ヒルバーグだったわけです。

一方で、告発された側のツンデルの側は、この疑問には根拠があるということを言うために、彼の側の歴史家を出してくれば、さらには、当時アウシュヴィッツに収容されてた女性で、私はガス室なんか見たことも聞いたこともないという人もいるわけです。
そういう人を出してくるとか、それから、ガス室とされるものが本当に工学的に見て、あれがガス室なのかということで、ロイヒター、リューヒターといいますけども、アメリカでガス室による死刑の歴史があるんですけども、そのガス室の設計にかかわってきたエンジニアなんですね。その人を証人として出したりとか、双方がそういうつまりガス室があったかないかを争うすごい裁判をやることになっちゃたったわけです。

しかもこんな裁判は前代未聞なんで、ここが大事なんですけども、カナダのマスコミがこれを大々的に取り上げたんですね。だからこそ、これはこの論争の戦後の一つのターニングポイントになったんですけれども、その中でさっき言いましたラウル・ヒルバーグという歴史家が出てきたわけです。それでラウル・ヒルバーグが歴史家として、堂々と、これこれこういうことだということを言ったわけなんですが、そこでツンデル側の弁護士が質問をするわけです。
あなたは、じゃあガス室で殺されたという死体の医学的報告を自分で見ましたかと言ったら、見たことがないと認めたわけですね、法定の宣誓証言で。だからこれ大ニュースになって、僕もその記事のコピー持ってますけども、カナダの新聞でラウル・ヒルバーグのような大歴史家が、実は解剖によるガス室の報告はないということを認めたということで、すごいセンセーショナルになったんですね。で、そういうことがあります。つまり死体という証拠に関して言えば、それは確認されてないわけです。当時の法医学者であるチャールズ・ラーソンも見てないし、そして通説側の中心的歴史家のラウル・ヒルバーグもそんな解剖記録は見たことがないと。つまりやっぱり証拠はないわけです。

あるのは発疹チフスで病死した本当に悲劇的ですけれども、発疹チフスの犠牲者の死体である。つまり発疹チフスでたくさんの人が死んだことは事実だけれども、ガス室で人が殺されたという主張については、まずその肝心の殺されたという死体の証明がない。そういうことがしっかり露呈してしまったわけなんですね。  
 
 ツンデル


サビーネ・サイトロン
(サブリナ・シトロン?)


ラウル・ヒルバーグ




 
 
さらに言うと、その裁判に出てきた、今、名前の出たロイヒター、英語ではリューヒターと言いますけども、リューヒターという人は、暗い話ですけど、アメリカには死刑でガス室を使ってきた歴史があって、一部の州では現に青酸ガスを使った処刑が行われてきた歴史があるわけですが、それを作ることにかかわってきたエンジニアであるロイヒター氏を、ツンデル側が何とこっそりポーランドに送るわけです。当時まだ共産主義だったポーランドに送って、そこにビデオのクルーとか、それから観光旅行を装うために彼の奥さんとか連れてって、行ってそこで実地検証をするわけですね。まず、エンジニアの目で、アウシュヴィッツで公開されているガス室を見て、どう思うかと。そうするとまずロイヒターがおかしいということを、ガス室の専門家の目で見て、いくつも指摘するわけです。

おかしいことの一つは、例えばアウシュヴィッツには、二つの収容所に分かれてるんですが、第1が、先にできた収容所にあるガス室が、非常にかたちが整って公開されてるんですが、そのガス室とされる建物が、ドイツの将校たちが使っていた病院の真ん前にあると。ここで青酸ガスを使ったら、ドイツ人の将校たちが処刑後に廃棄する青酸ガスで命を落としてしまう危険があって、こんな場所にガス室を作ることはあり得ないということが一つ。

それから水回りを見てみると、そこにやっぱり下水が、雨水が流れたとこがあるんですが、こんなことしたら青酸が外に出て大変だと。つまりアメリカでの経験で言うと、青酸ガスを使った処刑というのは大変な難しい処刑法で、まず周囲の人間の安全を確保することが大変なのに、ここにはそういう配慮が全然ないと。機密性ももちろん絶対に大事で、ガス室には高度な機密性がないと、その青酸ガスが漏れて周囲の人間死んでしまいますからね。ところがポーランドで公開されてるの、そういうものが全くないというようなことを指摘するわけです。

またポーランドで公開されたガス室は、ガス室のすぐ隣に火葬場があって、ガス室で殺された死体がここで焼かれたということになってんですが、青酸ガスで非常に引火性が強くて、こんなばかな設計するかというような指摘もするわけです。

そういうふうにまず見ておかしいということがいくつもあった。そこに加えてロイヒター氏たちがやったことは何かというと、二つに分かれてるアウシュヴィッツ収容所には、残骸を含めて全部で五つガス室とされる建物が今、もしくはその残骸、公開されているんですが、そのすべてに足を運んでビデオで撮影したうえで、誰も見てないところを見計らって、こつこつ壁を壊して、その壁を瓶に密閉して入れる。これは第1ガス室、これは第2ガス室というふうにして、こつこつとサンプルをたくさん集めて、それをこっそりアメリカに持ち帰るんですね。
そこでロス博士という分析化学の専門家がやってるオフィスがあって、そこにどこから取った何のサンプルだとか全く言わないで、これらのサンプルから、シアン、青酸ですね。青酸の分析をしてくださいと要請するわけです。
出されたほうは何も知りませんから、ただ仕事としてそれをやるわけですね。そのときに重要なのは対象、コントロールといいますが、比較対象としてアウシュヴィッツにある衣服を消毒するためのガス室が残ってて、それちょっと観光コースから離れてるとこなんですが、そこにも行って、そこの壁もちょっと取ってくるんですね。それは何かというと、当時発疹チフスが発生していく中で、ドイツの当局非常に危機感を募らせて、やってきたユダヤ人たちの衣服を、ガス室の中で青酸で燻蒸してたわけです。それは実際に青酸が使われてたこと明らかなので、それを比較対象として、壁のそこのサンプルも持ってくるわけです。それを分析して、ロス博士というところのオフィスに、ラボに、研究室に出して分析してもらったと。
その結果を見たら、その当時で戦後四十数年たってたわけですが、その衣服を消毒するガス室の壁からは、極めて高濃度のシアンが40年以上たっても検出されたんですね。
ところがポーランド当局が人が殺されたガス室だと主張して公開しているガス室の壁からはゼロ、もしくはゼロに近い極めて微量のシアンしか出なかったと。単純に棒グラフで比較すると1000倍以上の濃度の差があったりするわけですね。

つまりどう考えても、ここでシアンが、青酸ガスが使われたとは思えないということを、ロイヒター氏はポーランドにこっそり行ってきて、分析結果、第三者に委託した分析結果を含めて、それを法定に提出するわけです。これロイヒターレポートといいます。
これがだから決定的法医学的に見て、あそこに今、戦後公開されているあれらの部屋は、実は青酸ガスが使われたような部屋ではないはずだという化学的、化け学的証明として、その裁判に提出されると。こういうことがいろいろと行われたので、このツンデル裁判というのは、この論争史において非常に注目されている論争です。

 
 ロイヒター・レポート
→WIKIPEDIA
アメリカ合衆国の処刑ガス室に従事していたフレッド・A・ロイヒター (Fred A. Leuchter) が1988年にアウシュヴィッツのいわゆる「ガス室」を調査した結果をまとめたレポート。「アウシュヴィッツとビルケナウの『ガス室』が処刑ガス室として利用された、あるいはそのように機能したと考えることは不可能である」と結論付けている。

フレッド・A・ロイヒター (Fred A. Leuchter)
→WIKIPEDIA(英語版)


 
 

で、さらにそこにはこういうことのみならず、さっきも申し上げたとおり、当時の生き証人も出てくるわけですね。私はガス室を見ましたという証人も出てくる。

それから逆に私はそんな見たことも聞いたこともないという人も出てくる。

そうするとその中で起こったことというのは、例えばルドルフ・フルガ(?)といういわゆるアウシュヴィッツ生き残りの人間がいるんですが、その人の証言がそこで問われるわけです。その人が、こんなことを言ってる。アウシュヴィッツのガス室の隣の火葬場からの煙突から炎が上がってるのをよく見たと。ただしかし一般的に煙突の上から煙は出るけれども、炎自体が出ることは普通ないはずだということで、ツンデル側の弁護人がそれを問いただしたんですね。
そうしたらフルガが何と言ったかというと、私は実は自分で見たんじゃなくて、人から聞いた話を言ってるんだって言って、開き直るようにそんなことを言った。つまりその人は生き証人として有名だった人なんですが、何と自分が見たと言ってた話は、人から聞いた話だと、そこに。本当に人から聞いたのかどうかもわかりませんけども、そういう話にその場で話が変わっちゃったわけですね。有名な人だったんです。その人が証言ひるがえしたと。



一方で、ツンデル側の、見直し側の出てきた証人の中には、非常に興味深い証言をする女性がいたと。
これ『マルコポーロ』の記事の中でも取り上げたんですが、マリア・ファンヘルヴァーデンという女性がいて、ユダヤ人じゃなかったのかもしれないんですが、確かユダヤ人の男性と性的関係を持ったとかいうことで収容所に入れられちゃったという話らしくて、そういうことはあったということはもちろん第三帝国という政治体制に、非民主的な面ではあるんですが、とにかくそういうことでアウシュヴィッツ、第2アウシュヴィッツのほうに入れられてた女性がいるんです。

この人がこんな話をしたんですね。
列車でアウシュヴィッツに運ばれていくときに、ジプシーの女性が乗ってたと。そのジプシーの女性がこんなことを言ったと。アウシュヴィッツにはガス室があって、私たちはみんなそこで殺されてしまうんだ。それで彼女はおびえたというんです。

ところがアウシュヴィッツに実際行ってみて、第2アウシュヴィッツですけど、ビルケナウというそちらのほうに行ってみて、ある部屋に入れられたと。ガス室なのかと思ったら、上のシャワーから水が出てきたと。

つまり、結局それはシャワーだったんだけれども、この話は非常に広がってたということです。ガス室で、私たちはアウシュヴィッツに行ったら、ガス室で殺されてしまうんだという話は、当時実際に耳にしていたわけです。

そういったうえでこのマリア・ファンヘルヴァーデンという人は、でも私はアウシュヴィッツで人が殺されるのは一度も見たことがないと。そうとも証言してるわけですね。

病気で死ぬ人はたくさんいたと。本当にたくさんの人が病気で死んでいったと。それは知っているけれども、殺されるというのは見たことがない。

そしてガス室について言えば、このうわさを聞いただけだということを彼女は証言してるわけです。

これ非常に興味深い証言で、『マルコポーロ』の記事の中でも私がこれを取り上げた理由の一つは、この証言をツンデル裁判に出てきた証人の証言であるわけですが、アメリカの歴史家で見直し側のマーク・ウェーバーという人が指摘していることがあるのは、連合軍はこのガス室の話を非常にドイツ占領下のヨーロッパに対して宣伝していたと。ラジオでもやっていたし、それから飛行機のビラでこれを宣伝していたと。

このジプシーの女性はどこでこれを聞いたのかはわからないけれども、そういうところから話が流布されて、つまり連合国側、特にこれBBCらしいんですけれども、戦時報道の中の戦時宣伝の中としてこのガス室の話は非常に言われていたわけで、話はいろんな人が聞いていた。だからその話を聞いたっていう人はたくさんいたわけですよ。だからそれが聞いたという話が、あったという話に転嫁していったという面はあるわけだし、それをメディアの側が検証しなかったから、話が歴史に転化したという部分あるとこあるんですけど、こういう証言もあったというわけです。もうちょっと続けていいですか。 
ルドルフ・フルガ

 マリア・ファンヘルヴァーデン


 
  女性A もうそろそろ***なんで、とりあえずもうそろそろ***。     
   

西岡 じゃあ、わかりました。ちょっと休憩しましょう。休憩って、もうちょっと話しときましょう(?)。ちょっと休憩しましょう。

   
 
女性A ちょっとだけ区切りのいいところまで、***。 
   
 
西岡 じゃあ、もう10分ぐらい。 
   
 
司会 もう10分ぐらい。 
   
 
西岡 そこで休憩にしましょうね。

証拠がないということを言うと、今度は、でも証言があるじゃないかと必ず言うんですが、まずその証言に関して言うと、これあとの質疑応答でも話してもいいんですけど、ちょっと複雑な問題があるのは、現地に行くとわかるんですけれども、ガス室といわれている建物は何かというと、火葬場なんですよ。火葬場は当然あったわけです。何万人もの人が例えばアウシュヴィッツに収容されていれば死ぬ人出るの当たり前で、特に発疹チフスで死ぬ人がばたばたいたわけだから、火葬場があったのはまず当然なわけです。それで火葬場と、こんにち戦後ポーランドの当局は、火葬場に隣接した部屋だとか、火葬場の地下にあった部屋がガス室だったと主張してきたわけです。

ところがそれらの部屋は、化学分析してみると、壁からシアンがほとんど出ないと。ほとんどっていうのは、シラミ退治で使ってたことはあるから微量に出るのは別におかしいことじゃなくて、ただ対象とされた衣服消毒用のガス室と比べると1000対1ぐらいの比があるわけですから、そこで殺人が繰り返し行われてたとは、到底考えられない。

そしてさらに言うと、これはだいぶあとになってわかってきたことなんですが、アウシュヴィッツに入ってきたのソ連軍です。そのソ連軍がアウシュヴィッツでたくさんのドイツの文書を押収したんですね。まずこれが不思議なんですよ。もしアウシュヴィッツがそんな極秘の絶滅収容所だったらば、書類焼いたりして逃げるんじゃないかと思うけど、ドイツは書類たくさん残したまま引き上げてるんですね。その書類の動向が、戦後ソ連が崩壊したあとになって出てきて、それをフランスの研究者でガス室あった派の研究者ですけど、プレザックという人が調べていって、どうだ、ガス室の設計図があったぞって言って公開したんですが、その設計図を見ると、こんにちガス室とされてるところにドイツ人が設計図の中で書いてる言葉は何かというと、Leichenkeller、死体安置室って書いてあるわけです。つまり病死した人たちをそこに安置して、霊安室ですね。そのあとで隣にある火葬場で償却したということが、むしろ逆にそれでわかっちゃうわけで、証拠が、つまりポーランドがガス室だと主張して、公開してる部屋がガス室であった証拠っていうの、やっぱりないんですね。それどころか反証とも言うべき、死体安置室と書いてある設計図まで出てきている。こういう状況ですから、証拠は本当にないんです

そのうえに、あと10分のうちに、ちょっともう一つ大事な証言を言います。証言証言と言うんですけれども、実は戦後のドイツというものが、決して本当の意味で民主主義の国だって言えない面があって、西ドイツですよ。今のドイツもそうだけども、こうしたガス室大量殺人といったことに疑問を投げかけるとさまざまなかたちで圧迫迫害を受けます。今でも疑問投げかけて、牢屋に入れられたり今でもしますから、自由に発言ができない。だから当時アウシュヴィッツにいた人たち、自由にとても発言できたわけがないわけですね。

ところがそれにもかかわらず、1973年に、そこにいたティース・クリストファーセンというドイツ人の男性が本を出す。
私は戦争中にアウシュヴィッツにいたと。言われてるようなガス室による大量殺人がなかったと断言できるという意味のことを本に書いてます。その本の、本当薄いパンフレット、私は英語版で読んだんですけども、その題名が『アウシュヴィッツの嘘』という題名なの。彼はアウシュヴィッツの真実としたかった、出版社がアウシュヴィッツの嘘にしたっていうんですね。この言葉聞いたことおありでしょう、皆さん。アウシュヴィッツの嘘っていう言葉。だから私がしゃべってるように、疑問投げかけること、アウシュヴィッツの嘘とか何とか言うんだけど、この語源は、このクリストファーセンの本なんですね。これが1973年に出されたときに、欧米のシオニスト勢力は、これに大変な衝撃を受けたって聞いてます。その彼の証言、アウシュヴィッツで彼が戦争中見たものはどんなことで、アウシュヴィッツはどんなところだったっていうこと、じゃあ休憩のあとで話しましょう。
 
 シアン

プレザック

ティース・クリストファーセン


『アウシュヴィッツの嘘』


 
  女性A ***。     
  司会 どうもありがとうございます。興味深い話がたくさん出てきたと思いますし、僕もだんだんと記憶がよみがえってまいりまして、『アウシュヴィッツの嘘』という本、パンフですね。木村さんが『アウシュヴィッツの争点』という名前で出版された本があるんですけれども。     
 
西岡 ここにあります。 
   
   

司会 後書きのほうで、やっぱり僕は、嘘にしたかったよって言ってはるんですよね。でも、そうするとあまりにも圧力が強まりそうだったので、少し和らげて争点というふうに言ったっていうふうに書いてありました。そういうふうな、今のドイツで、そういう罪があるんですね。刑法の中にホロコーストを否定することは、刑法上の罪であるというような法律が、今でもまかりとおっている。こういう問題も近代司法の中ではどうもおかしい。民主主義国とは言えないんじゃないかみたいなことはいろいろな方面から挙がってきてる疑問点でもあろうかと思います。後半は、どのあたりのお話。
   
 
西岡 もうちょっと話したあとで、じゃあ、質疑討論にしましょう。今ちょっと尻切れトンボになって、もうちょっとだけ話します。 
   
   
司会 休憩します?
   
 
女性A 一旦休憩して、ちょっとお手洗いタイム***、あと何分ぐらいかかりますか。 
   
 

西岡 あと10分はちょっと話したい。
   
 
女性A お手洗いタイム、お願いできますか(?)。
司会 ということで、一旦レコードを切りまして、10分ほどお手洗いタイムということにさせていただきたいと思います。ご清聴ありがとうございます。 
   
 

(ご指定箇所終了 01:23:10)