→ 李信恵界隈の講演会の後ろ盾 1999年以前

                   
      

1988/04/03(日)14:00~
在日本韓国YMCA アジア青少年センター、東京都千代田区神田猿楽町2丁目5−5、JR水道橋駅
「済州島 4・3 事件 40 周年追悼集会」
主催:四・三事件を考える会


立教大学
集合的記憶における済州4・3
2022/05/10
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3. 済州 4・3 を周知するための在日済州人の努力と成果

3.1. 東京での済州 4・3 真相究明運動の開始と作家・金石範(キム・ソッボム)

東京での済州 4・3 真相究明運動の始まりは、1988 年 4 月に開催された「済州 4・3 事件を考える会」の「済州島 4・3 事件 40 周年追悼集会」がきっかけとなった(1988 年 4 月 3 日午後 2 時、東京水道橋、韓国YMCA)。

その中心には、1984 年、『火山島』で、第 11 回大佛次郎賞を受賞した在日済州島出身作家の金石範が 1988 年 3 月 29 日付けの朝日新聞に 3 千字に及ぶ「ウネリ-タブー打破、立場を求められる知識人」の解題があった。この解題により、集会は在日済州人をはじめ、日本人も大勢参加することで、約 500 人の聴衆が集まることとなり、これが集会を成功させるのに大きく寄与したといえる。
金石範は、『看守朴書房』(1957.8)、『カラスの死』(1957.12)、『火山島』(1976~1997)などの小説を執筆し、さらに 1998 年の毎日芸術賞受賞もあり、こうした活動を通じて日本社会に済州 4・3 の真相を知らせた。また、金奉賢(キム・ボンヒョン)·金民主(キム・ミンジュ)による『済州島人民の《4・3 武装闘争史》資料集』(1963)などが出版され、済州 4・3 が日本社会で次第に注目され始めた。日本の毎日新聞によると、金石範は 1951 年に対馬を訪れるが、この時、ある女性から性拷問の体験談を聞いて現実以上に圧倒され、それを基点に済州 4・3 をテーマにした『カラスの死』(1957)を執筆したという。この作品は、日本社会での済州 4・3 を知らせる礎となった。
一方で、金石範は、2015 年に韓国で開催された第 1 回済州 4・3 平和賞の受賞者に選ばれたが、李承晩を批判する発言をしたということで保守派の国会議員から批判を受ける。同年の 10 月には『火山島』が韓国で出版され、出版記念会に出席しようとした際には、入国を拒否されるなどの困難を経験した。これは、いまだに韓国社会で深刻に残存しているイデオロギー対立を代表する例といえる


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1993/04/03(土)

済州島「四・三事件」45周年追悼の集い(KCC会館)
「済州島のメーデー」上映
パネルディスカッション
・金石範(キム・ソクポム)(作家)
・金民柱(キム・ミンジュ)(元在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)幹部)
・文京洙(ムン・ギョンス)

主催:「済州島四・三事件45周年追悼の集い実行委員会」
賛同:済州島「4・3事件」を考える会



和解学の創成〜正義ある和解を求めて〜|早稲田大学
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「済州4・3」70周年、大阪での取り組み25年から見えてきた家族の記憶

済州四・三事件70周年犠牲者慰霊祭実行委員会:大阪市生野区在住

張征峰(チャン・チョンボン)


済州島四・三事件45周年追悼の集い(1993.4.3)

1993年4月大阪市生野区のKCC会館ホールで『済州島「四・三事件」追悼の集い』を催した。東京の済州島四・三事件を考える会と共に準備した。当時同胞でも関心を持つ人は少なかった。当時事件に関する情報も圧倒的に不足していた(正確に言えば、済州島4・3事件を暴徒の事件と決めつけ、事件をタブーとした権力作用がつい最近2000年1月、「四・三特別法」制定、公布まで続いてきた)。事前に京都新聞が取り上げてくれた。金石範氏、金民柱氏、文京洙氏のパネルディスカッションだったが、論議が尽きずフロアからの体験談等も相次ぎ予定の時間を大幅に過ぎ進行に四苦八苦した。大阪では初めての公開的な追悼集会になった。以降も毎年学習会が継続、50周年からは予算や事務局体制が整備され、今では1世を中心に参加者が500名を越す大規模な慰霊祭となっている。

なぜ「済州4・3」に関わろうとしたのか。当時事件を十分に認識していた訳ではない。知らないから関わった。それまで済州に関心がなかった。韓国民主化運動には関心があったが、済州の歴史を知ろうとしなかった。辺境の地・済州島とみなす差別意識が自分のなかになかったとは決して言えない。

最近知ったが、私が幼少の頃、北朝鮮への帰国運動が始まると、父が帰国を決めてしまった。母方親類が北の状況は良くないと察知し、猛反対で乗船しなかった。以降も下請工場製造業を家族全員で担ったが生活は困窮。民族差別が当たりまえの日本社会で家族を背負って生きる在日1世の父の不安、やるせなさ、とりわけ仕事上のストレスは家族への暴力へ向かわせた。生活苦のなか、故郷の土地を済州の家族に譲渡し、学用品など仕送りする父に、私たち家族への愛情はないのかと母、子ども同士で非難したりもした。

幼少の記憶はトラウマになっている。当時の済州は1世である尊敬できなかった父のイメージと重なる。

事件に関わるきっかけは外登法運動に関わる中知り合った新幹社の高二三さんらの熱心な働きかけが大きい。大阪は同胞が多く、生野区は済州出身者が多い。事件のことを知りたい。45周年の節目で集いを催すことで、得体のしれない闇に包まれている事件のタブーを解きたいとそう思った。

2001年父親の葬儀の通夜で父方の親類が「あんたのお父さんは当時は警察官で、「済州4・3」の前の年にあった三一節集会でデモ参加者へ警察官が発砲等したので武装隊から警察官への報復があるからと兄弟が日本に逃がした」と教えてくれた。父は武装隊が1948年4月3日蜂起する前に妻と2歳の娘、父母、兄弟を置いて解放前から行き来していた大阪へと逃れた。朝鮮籍であったこともあり1978年頃、民団の母国訪問墓参団に参加するまで済州に帰郷できなかった。

済州島から逃れたが、大阪で郷里、済州市三陽里の親睦会には熱心に活動をした。南北分断が深化するなか、帰れない済州。親睦会は父にとって済州だった。

生前、恐る恐るなぜ警察官になったのかと尋ねたら、「1945年8月は光州市で日本軍として解放を迎えた。警察官を募集していたので応募したら採用された。公務員だし安定して生活ができると思った。」とだけ言った。

1998年1月大阪で「済州4・3」を描いた映画『レッド・ハント』(※注)が上映された。体験者の証言が続くのだが父の兄・張五林が突然登場。1947年3月1日観徳亭広場での集会、デモに参加していた。「一番後ろの方を歩いていたもんだから…。銃で撃たれて…。弾は首のところを貫通したんだ。これが弾をうけたときの傷じゃ。」と首の傷跡をみせた。1986年初めて済州島を訪ねた際に観徳亭を案内してもらったが、傷のことも事件のことも話してもらえなかった。映画の後立ち上がれなくなった。父は2001年に亡くなったが、最後まで事件前後のことは一切語らなかった。私が「政治難民」の子どもである事実を知ったのは本当に最近のことだ。

25年を経過した今、沈黙をかかえて亡くなった父ら死者と対話しながら、記憶を頼りに、国境をこえて、か細く頼りないが、済州との関係を紡ぎ直す歩みのなかにいる。


昭和18年12月当時、日本軍人(左が父:21歳頃)

在大阪三陽張氏親睦会(1966.4.17.)

※注:『RED-HUNT 日本語版シナリオ』(東アジアの冷戦と国家テロリズム事務局:1998年刊)P4


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済州四・三 75周年大阪慰霊祭
済州島四・三事件をめぐる主な大阪での取り組み
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1993年
4月 済州島「四・三事件」45周年追悼の集い(KCC会館)
    「済州島のメーデー」上映
    パネルディスカッション(金石範・金民柱・文京洙)
    主催:「済州島四・三事件45周年追悼の集い実行委員会」
    賛同:済州島「4・3事件」を考える会


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1998/04/23(木)午後6時30分~9時
神戸学生青年センター
阪神教育闘争50周年記念シンポジウム

記念シンポジウムに韓国より遺族(4名を予定)を招請する。
朴柱範さんを中心とした「パンフレット」を出版する。
 

主催 : 阪神教育闘争50周年記念神戸集会実行委員会
呼びかけ人
徐根植(ソ・クンシッ)
(兵庫朝鮮関係研究会代表)
飛田雄一(ひだゆういち)(神戸学生青年センター館長)



阪神教育闘争50周年記念 神戸集会実行委員会のホームページ
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阪神教育闘争50周年記念

神戸集会実行委員会のホームページ


獄中の朴柱範さん。神戸大久保刑務所にで(1948年?)

「忘れるまい4・24-阪神教育闘争50周年記念誌」(B5版、32頁、400円、〒160円)

履 歴

 

記念シンポジウム

 

出版案内

 

文献リスト



今年は、阪神教育闘争(1948年4月)の50周年にあたります。

阪神教育闘争時に大阪においては、4月26日に金太一少年が警官隊発砲によって尊い命が奪われました。神戸の闘いでは、当時朝連兵庫県本部委員長であった朴柱範さんが犠牲となりました。

朴柱範さんは、軍事法廷で有罪判決を受けて神戸刑務所に服役していましたが、翌1949年11月25日午後8時に病気を理由とした仮釈放のわずか4時間後に亡くなられました。「獄死」と言っても過言ではありません。

その朴柱範さんの遺族が韓国に生存されていることが判明し、この度阪神教育闘争50周年を機に再び神戸にお招きすることになりました。(97年10月、遺族訪問の記録、 by 飛田雄一)

私たちは、「阪神教育闘争50周年記念神戸集会実行委員会」をつくり多くの方々の賛同を得て、以下の取り組みを進めたいと思います。

 

4月23日(木)午後6時30分~9時(於/神戸学生青年センター)で記念シンポジウムを開催する。
記念シンポジウムに韓国より遺族(4名を予定)を招請する。
朴柱範さんを中心とした「パンフレット」を出版する。
 

以上の記念事業のために募金を募ります。多くの方々のご協力をお願いします。

 

◎募金目標 100万円

個人一口 3000円、 団体一口 5000円

◎送金先 郵便振替<№00970-0-74708 口座名 4・24神戸>

 

1998年2月

 

阪神教育闘争50周年記念神戸集会実行委員会

呼びかけ人 徐 根 植(兵庫朝鮮関係研究会代表)

飛田 雄一(神戸学生青年センター館長)

 

事務局連絡先 〒657 神戸市灘区山田町3-1-1 神戸学生青年センター内

℡ 078-851-2760 FAX 821-5878

E-mail hida@ksyc.jp
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