→ 人物図鑑詳細情報  Tetsuro Sato(tetsuro.sato.52)さとう てつろう?@naagita、仏教、編集ライター




Tetsuro Sato
tetsuro.sato.52

佐藤哲朗
さとう てつろう?


nāgita #antifa
@naagita


 

主水に対するかなりひどい二次加害に「いいね」  



鹿砦社のリンチ事件シリーズ本発売後、伊藤大介がそれを読んで反論。それに「いいね」
リンチ事件発覚後、鹿砦社からの一連のリンチ事件シリーズの本が出てるのに、それでも伊藤大介側にかなりよってるなと。主水への二次加害とは言えないかもしれないけど。


神原弁護士、野間川の等の言い分のほうをRT。あっちより。



 
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nāgita #antifa
@naagita
五刧思惟のウォーミングアップ中

幡ヶ谷
http://naagita.hatenablog.com/
2009年6月に登録
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仏教の出版の編集者やライターをしているとか。

 


2010/10/31の催しの告知











 





【賛同を!】石破発言に対する自民党と石破幹事長への抗議声明/「秘密保護法」廃案へ!実行委員会
2013-12-03 13:14:51 | 社会

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石破発言に対する謝罪と処分及び特定秘密保護法案の白紙撤回を求める

2013年12月2日

自由民主党 御中

(中略)



賛同人 (2013年12月2日時点)
宇都宮健児(弁護士)五野井郁夫(政治学者)火炎瓶テツ(ミュージシャン)村上ダミアン勝(ミュージシャン)マエキタミヤコ(デモクラTV)小島延夫(弁護士)武井由紀子(弁護士)河崎健一郎(弁護士)井堀哲(弁護士)島昭宏(弁護士)花澤俊之(弁護士)井手実(内装業/怒りのドラムデモ/首都圏反原発連合)津田浩一(会社員)高健一(会社員 C.R.A.C)松田カンポウ(会社員)小林雄二(会社員)大塚大(行政書士・社会保険労務士)竹川宣彰(美術作家)佐藤哲朗(仏教活動家)木野寿紀(C.R.A.C)イルコモンズ(現代美術家)原田學植(弁護士)こぐれみわぞう(ミュージシャン)吉田理佐(版画家)大熊ワタル(ミュージシャン)宮鍋匠(会社員)伊藤大介(会社役員)伊藤知子(会社役員)伊藤智雅子(主婦)北村栄(弁護士)松崎健一(会社員)金原徹雄(会社員)鈴木孝弥(文筆家)竹内美保(ライター)萩尾健太(弁護士)大野友也(大学教員)宋惠燕(弁護士)久保木亮介(弁護士)中川重徳(弁護士)太田伸二(弁護士)杉本朗(弁護士)田井勝(弁護士)小池拓也(弁護士)毛利倫(弁護士)ECD(ラッパー)久保憲司(カメラマン)山口祐二郎(作家)石田昌隆(フォトグラファー)大久保綾乃(会社員)上山勤(弁護士)仲松大樹(弁護士)西田美樹(弁護士)西晃(弁護士)齋藤裕(弁護士)伊須慎一郎(弁護士)増本一彦(弁護士)折本和司(弁護士)小賀坂徹(弁護士)穂積匡史(弁護士)鈴木麻子(弁護士)阪田勝彦(弁護士)神原元(弁護士)小谷成美(弁護士)原和良(弁護士)山本匠一郎(建築家)今泉義竜(弁護士)畑地雅之(弁護士)松沢呉一(ライター)諸富健(弁護士)日下部将之(会社員)
http://www.mklo.org/20131202/

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http://archive.is/wip/O3u90

 



2018/06/29




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2018/10/19


ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(1)


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日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。



佐藤哲朗氏(幡ヶ谷・ゴータミー精舎のブッダ像 前で)

Q1 こちらの協会では、ヴィパッサナー瞑想を指導しているそうですが、なぜ、今、注目されているのですか。

ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想とも言われます。経典に使われるパーリ語から説明しますと、「ヴィ」というのは「よく・詳細に」、「パッサナー」は「観る」という意味になります。つまり、「よく観察すること」という意味になります。

現代的なヴィパッサナー瞑想は、ブッダの時代から連綿と実践されてきた、「四念処」、身・受・心・法の四つのアプローチで現象を観察する修行法に基づいてアレンジされています。四念処の「念」の原語は「サティ」で、現代日本語では「気づき」と訳されていますね。ですから、ヴィパッサナー瞑想を親しみやすく「気づきの瞑想法」と呼ぶこともあります。

これまでの日本社会で行われてきた「瞑想」というと、何か特定の対象をこころにイメージして精神集中するとか、ひたすらマントラ(真言)を唱え続けるとか、そういう宗教的・神秘的な「行」という印象が強かったと思います。あるいは「禅問答」という言葉にあらわれているように、何か不条理な世界に自分を追い込んでいくような感じもありましたよね。

それに対して、ヴィパッサナー瞑想では神秘的なシンボルや呪文、こころが作り出すイメージまでも一切排除して、科学的にものごとを観察するというアプローチを取ります。客観的に自分(と呼ばれている現象)を観察するということで、これは宗教というよりは「心の科学」(スマナサーラ長老)なのだと、現代人にも受け入れやすかった、フィットしたということではないでしょうか。「観察=瞑想」という合理性が、宗教よりは科学を信頼する現代人のマインドにも合致したということですね。長い歴史を持つ仏教国である日本の人々にとっても、ヴィパッサナー瞑想は新鮮な驚きをもたらしたのです。
•四念処……「気づき(サティ)」を備えて、身(身体の要素や動き)・受(身心の感覚)・心(こころの状態)・法(解脱に資する諸々の概念)という四つのチャンネルを観察し、「一切のものごとは執着に値しない」と発見して解脱に達する修行法。絶えず生滅変化する「身・受・心・法」の状態・あり方に不断に気づき、注意し続ける「気づきの実践」を通して、現象へのとらわれ・執着を離れ出世間の智慧を開発する実践である。

――ブッダの瞑想もヴィパッサナー瞑想と考えてよろしいでしょうか。

ヴィパッサナーという単語自体は、パーリ経典の中にそんなに頻繁には出てこないのですが、サティパッターナ(念処)、いわゆる気づきの瞑想といわれる四念処の実践はいたるところで言及されていますし、中村元博士の翻訳で日本人に親しまれている『スッタニパータ』の中でも、“サティ”(気づき)という言葉はたくさん出てきます。いわゆる『スッタニパータ』の一番古層の部分にも、サティという言葉が出てきます。気づきを絶やさない、ということですね。

そのサティの実践が教学的に整理されていった時、ヴィパッサナーという単語で表されるようになったのです。まあ、細かいところでは異論も成り立つかと思いますけれど、一応、テーラワーダ仏教の伝統の中では、サティの実践・観察の実践が即ち、ブッダの瞑想法ということになります。

なぜ、そう言い切っちゃうかといえば、いわゆる精神集中的な瞑想ならば他のどんな宗教でも教えていますが、サティの実践・観察の実践ということは、お釈迦さま以外の誰も発見しなかったからです。サティの実践・観察の実践を発見したからこそ、お釈迦さまは覚りを開いてブッダになったのだと、仏教徒は確信しているわけです。

Q2 マインドフルネスは、日本語に訳すと何と言いますか。

「気づき」という訳になりますね。さっきもちょっと触れましたけど、マインドフルネス(mindfulness)は、仏教経典に出てくるサティ(sati, サンスクリット:smṛti)の英訳なんです。他によく使われている英訳にアウェアネス(awareness)があって、スマナサーラ長老はこっちのほうが正確な訳だと仰っています。

経典をひも解いてみるとサティという単語は、①瞬間瞬間の気づき・注意・不放逸、②特定の(瞑想)対象・法に心をかける、③単なる記憶作用、といった意味で用いられてきました。

中国に仏教が伝来した時、サティ(sati, smṛti)には「念」という訳語が当てられました。歴史的経緯を見ていくとややこしいところがあるんですけれど、シルクロードを経由して中国にわたった北伝仏教の教学では、念というキーワードが、記憶するとか、思念するとか、一つの対象を考え続ける、というふうに――いわゆる念仏の念ですよね、阿弥陀仏だったら阿弥陀仏を念じ続ける――対象を想起し続ける、というかたちで解釈されてきました。

要するに、日本も含めて北伝の仏教では、サティを解釈する時に②と③の意味が強まって、①「瞬間瞬間の気づき(つまり不放逸)」という実践的意味が抜け落ちてしまったんですね。とはいっても、日本語で「正念場」とか「念には念を入れよ」という時の「念」には、①の意味も残っていますよね。面白いなと思います。

現代のテーラワーダ仏教に至る南伝仏教の文脈では、「瞬間瞬間の気づき(つまり不放逸)」という実践的な意味が保存されてきたんですね。サティはアウェアネス、マインドフルネスなどと英訳され、そこからさらに日本語に重訳して「気づき」とされたのです。

「気づき」というキーワードは仏教的な文脈だけではなく、スピリチュアル系の本なんかによく出てくるため、敬遠する人もいます。でも従来の仏教文献では、八正道の正念は「正しい記憶」「正しい思念」など、具体的な実践と結びつかない単語に訳されていたんですね。訳した人も、意味が分かってなかったかもしれません。そこにテーラワーダ仏教で保存されてきたサティの概念が「マインドフルネス」あるいは「アウェアネス」という英語経由で移入されたことで、仏教の基本中の基本である「正念」が日本人にもストンと理解できたんですね。瞬間瞬間、変化生滅し続ける現象のあり方(無常)に「気づく」ということが、ブッダの説かれた「正念」の実践方法でした。しかしそれが、これまでの日本語の仏教の文脈の中では見失われがちだった、ということなのです。

20世紀末から今世紀にかけて、テーラワーダ仏教という新しい流れが日本にどっと入ってきたことによって、これまでの日本の仏教の中で空白になっていたミッシングピースが、「正念とは、正しい気づきなのだ」という具合にバチっと嵌ったんでしょうね。

Q3 気づきの状態とは、どういうものですか。

瞬間瞬間、自分という身心に起きている現象に、先ほどお話しした四念処、つまり身体、感覚、心、法(ダルマ)のチャンネルで気づいている状態のことを言います。具体的にいうと、身体の観察(身隨観)では、身体の要素・日常の動作や呼吸など身体の機能を観察します。身体の機能は必ず感覚を伴って起こりますから、その感覚にフォーカスすると感覚の観察(受随観)になります。四つのチャンネルと言っても密接につながっているものです。

ただ、やりやすいのは身体の動きの観察ですよね。立っている状態だったら、立つまでの動き、立っている時の身体の状態を観察する。呼吸するたびに身体が膨らんだり縮んだりする動きを観察する。あと、日常の動作ですね。歩いている場合は歩いている状態を観察する。それと、身体にはいつでも感覚があるでしょう。いつでも不快・快・中立(苦・楽・不苦不楽)の感覚が現れては消え、現れては消えしていますから、それを淡々と観察する。

たとえば、いわゆるマハーシ式だと、お腹の膨み縮みを観ます。膨らんでいる時と縮んでいる時の感覚は、瞬間瞬間違っていて、変化しています。感覚の変化を、瞬間瞬間、観察していくと、そこにすごいダイナミズムがあると分かるんです。心の観察(心随観)の場合は、心の変化です。心が大きくなったり小さくなったり、暗くなったり明るくなったり、そういう心の変化を観察してゆく。それから、現象を成り立たせている様々な真理、現象世界から離れていくための様々な真理を観察してゆく。身・受・心・法という四念処、その四つの角度・アプローチで観察していく、ということになります。

身体の要素観察には、三十二分身の観察というのがありますね。身体の表面から髪の毛、体毛、皮膚、爪、歯、皮膚の中にあるもの、大便、小便、体液、胃液とか、あとは肺や肝臓や腎臓、脳みそなどの内臓とか骨とか。私たちが大事に手入れしている身体も、ひとつひとつの部品を取り出してみればすごく気持ちの悪い、不浄なものでしかない。それを確認してゆく、いわゆる解剖学的な瞑想ですね。

日本では実践できないと思いますが、死体が徐々に腐って朽ち果てていく様を実際に観察するやり方もあります。昔のお坊さんたちは、墓場や死体捨て場に行って、身体が壊れていく様子を観察していた。それも身念処、一つの身随観です。日本でなかなかできないことです。でも、スーパーに行って、生鮮食料品売り場を覗いてみて下さい。魚の切り身と言ったって、それは「死体」の一部ですからね。豚肉も鶏肉も神戸牛の霜降りも、肉は死体ですから。それも観察になります。「美味しそう」どころではなくなりますから、日常生活の中でそこまでやる人はなかなかいないでしょうけれど――。


編集局長として日本テーラワーダ協会を支える佐藤氏

Q4 気づきの状態を得る方法として、坐ってする瞑想と歩行瞑想があります。その違いと、観察の対象を教えてください。

立つ瞑想、歩く瞑想という場合、観察の対象は、四念処の“身(身体)”と“受(感覚)”の二つです。この身体と感覚の2つの観察という要素が大きいんですけれど、あと、やっていくうちに心の観察にも入っていきますね。すべてサティの実践は、瞬間瞬間に何が起こっているか、その時々の瞬間瞬間を観察してゆくということなので、四つのチャンネルと言っても、実践する場合は一本道なんです。その瞬間にサティを入れているチャンネルがどこか、その瞬間、何に気づいているのか、という差でしかないのです。瞬間瞬間起きている現象に傾注して、気づいていること、気づきを絶やさないこと。立っていようが、歩いていようが、坐っていようが、それだけのことです。

――それを日常生活の中に取り入れることはできますか。マインドフルな毎日を送るにはどんな工夫が必要ですか。

「瞑想とは実況中継である」とスマナサーラ長老も仰っていますが、日常生活の中でも、実況中継しながら気づきを絶やさないことは、各人の工夫によって可能です。一人でいる時は文字通りの実況中継もできますが、自動車の運転など、複雑なことをしている時には難しいでしょうね。そういう時でも、自分がいま何をしているのか、ということを承知(正知)していることはできるでしょう。

あるいは、日常生活の中で心の変化が起きた時に、なんか引っかかっているなということで、自分は執着しているんだな、と気づく。「あ、執着」とラベリングする。そうやって、真理の角度でものごとを見て「あ、自分はいまこうなんだ」と気づくことはできるでしょうね。その角度に感情を入れて、「執着してる自分はダメだ」とか評価を始めたら、瞑想どころかただの妄想ですが。要するに、いつも「観察モード」でいるということです。生活の中で、ひたすら観察してデータを集め続けるんです。でも、余計な評価は一切しない。それができれば、マインドフルな毎日を送れるということになるのではないかと思います。

掃除をしている時には、掃除機「押します、引きます」とか、皿洗いする時には、「回します、回します」とか、手を「伸ばします、戻します」など、そういう単純な動詞で実況するんです。なるべく単純な動詞を使うことで、現象世界の見せかけの複雑さに捉われることなく、いま・ここの自分の行為を実況中継することはできます。一人の時だったらね。やれる時にはやればいいし、やれない時にも観察モードを忘れないで、自己観察してゆくことはできるはずです。

たとえばかっと怒りそうになった時には、「怒りが出てきたな」と気づければ、それ以上、炎は燃え広がらないでしょう。マインドフルじゃない場合は、怒りが炎上して延焼まで起こして、たいへんなことになってしまったりします。欲にしても怒りにしても、気づきがあるのと無いのとでは、結果が大きく違います。


――それだけ我々は気づいていられないということですか

基本的に私たちは、観察モードは嫌ですよね。オートモードで、ぼんやりしていたい。ボーっとしていたい。貪瞋痴(欲・怒り・無知)のままにしていたい。観察モードの生き方は、貪瞋痴の反対ですから。惰性で生きていたい、なるべく寝ていたい自分を無理にでも切り替えて、つねに観察モードでいるというふうにすれば、日常生活のトラブルもかなり軽減されるんじゃないでしょうか。

たとえば、「瞬間瞬間、言葉で実況中継なんかできない。やってられない。そんな必要ないんじゃないか」と思ってしまうのは、ある意味、あたりまえの話なんです。私たちは覚ってないんだから、観察モードなんて嫌なんです。瞑想がんばってるという人にしたって、ホンネのところは瞑想してるふりだけして、ボケっとしていたいんです。たまさか真剣に実況中継しても、嫌で嫌で仕方がなくて、タイマーが鳴った瞬間に拷問から解放された気分になる場合もあります。それがケシカラン、という話じゃなくて、それがありのままの人間なのです。

お釈迦さまは、仏道を歩む人が最初の解脱(預流果)で無くなる煩悩(結)が三つあると仰っています。①「有身見【うしんけん】」……「わたし・我」が存在するという思い込み。②「戒禁取【かいごんじゅ】」……戒律や修行にたいする見当違いのこだわり。③「疑【ぎ】」……真理に対する疑い・疑心暗鬼。煩悩というと、欲とか怒りをイメージしがちなんですが、瞑想する人が実際に戦わなくてはいけないのは、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という固定観念とそのお仲間なんですね。

あとでも話しますが、私たちは何か見るたび、聞くたび、感じるたび、考えるたび、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という錯覚を作り出しているんです。仏教の「気づきの瞑想」というのは、この「わたし」が無いもののように観察モードで生きることですから、「わたし」の立場からしたら、嫌がらせみたいな行為なんですね。当然、「わたし」を大切にしたい人情からすれば認めたくないですし(有身見)、なるべく見当違いのことをしてやりたくなりますし(戒禁取)、こんなんおかしいだろという疑心暗鬼にもなります(疑)。ですから、「気づきなんかやってられるか」というホンネをまず認める素直さがないと、修行はキツイんじゃないかなと思います。

――それは、瞑想を実践しようとする人が突きあたる壁のようなものですか、そうだとしたら、その乗り越え方を教えてください。

人それぞれでしょうけど、預流果の解脱に達しない限り、有身見・戒禁取・疑はつきまとうわけで、あまり気にしないで淡々と続けることでは? いつでも「観察モード」でいる、という実践のエッセンスをつかんでおくこと。それから、修行とは自分の欠点に気づく営みなんですから、「うまく行かない」と感じるのがあたりまえなんです。瞑想するたびに自分のダメさが見えてくるということは、素直で正直である証拠なので、良い傾向として喜んだほうがいいんじゃないでしょうか?

ヴィパッサナーの芯をつかまないで、枝葉末節のところにぶら下がってしまうと、疑心暗鬼に捉われてぐらぐらしてしまう。そうではなくて、基本的に瞑想というのは観察モードなんだ、と太い柱を立ててみる。細かく観察するためには、ちゃんと坐る、歩く瞑想を集中するということも当然、必要です。しかし日常生活の中でも、観察モードを忘れなければ、それは瞑想して生きているのと同じなんだと。このように芯をつかんでいれば、スランプということも起きないと思います。だいたい、うまく行かないことをスランプと解釈すること自体、「完璧な自分」がどこかにいるはずという邪見ですからね。

よく「人としゃべる時に、実況中継できないじゃないですか」とか聞かれるんですけど、それはちょっと気づきの瞑想を形式的にとらえ過ぎです。そういう時は、相手の話によく注意(サティ)して、自分が話す時もきちんと注意(サティ)することが、すなわち気づきです。そうやって、ちゃんと芯をつかむこと、ということで解決するのではないかと思います。(次回に続く)

佐藤哲朗(さとう・てつろう)


佐藤哲朗(さとう てつろう)
1972年、東京都生まれ。東洋大二部文学部印度哲学科卒業。ライター・雑誌編集者などを経て2003年から日本テーラワーダ仏教協会事務局長を経て現・編集局長。インターネットを通じた伝道活動、アルボムッレ・スマナサーラ長老の著作編集などを担当。単著は『大アジア思想活劇――仏教が結んだ、もうひとつの近代史』『日本「再仏教化」宣言!』サンガ。共著に『日本宗教史のキーワード』慶應義塾大学出版会などがある。


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 2018/10/31





ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)前編


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 2018.10.31


日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。



インタビューに答える、日本テーラワーダ協会編集局長・佐藤哲朗氏(撮影:一ノ瀬健太)

Q1 瞑想をして到るところは、具体的には、どんな境地なんでしょうか。

仏教の専門用語では「解脱」とか「涅槃」と言われる境地ですが、要するに「無執着」、一切の執着がない状態です。われわれのこの苦しみというもの、何かが不安とか、不満とか、なんか変だな、と思うような違和感とか、そういうものから完全に解放された、という世界ですね。

つまり、欲とか怒りとか無知に引きずり回されて生きているような状態から、完全に解放されてホッとしている境地と言えるのではないでしょうか。ホッとすると言っても、一時的にホッとするんじゃなくて、本当にとことん落ち着いていて、別段、それ以上何かしなければ、ということもない。やるべきことはやりおえた、という終了宣言。それが仏教の瞑想で達すべきところですね。

解脱・涅槃の同義語はいろいろあります。私が個人的に気に入っているのは「アナーラヤ(anālaya)」という言葉で、これも「無執着・無愛着」と訳されている。ほかには、恐れがない(無畏)、怒りがない(無瞋)、欲を離れた(離貪)、老いることがない(不老)、死ぬことがない(不死)、こころの汚れがない(無漏)、現象世界を離れている(無為)、真理、幸福、彼岸、未曾有、そういった言葉でも表現されていますね。そうやって、最終的な究極のゴールは様々な単語で語られています。

――老いることがない、死ぬことがない、というのは?

最終的な究極のゴールは様々な単語で語られているのですが、お釈迦さまはこれらを列挙した経典のなかで、単語はいろいろあっても意味するものは同じく、「貪瞋痴(欲・怒り・無知)の滅尽」なのだと明言されています。ですから、老いることがない、死ぬことがない、とは、「一切の煩悩がない」という意味なのです。

でも、不老・不死というのは、ちょっと挑戦的な表現ですよね。老いたり死んだりするっていうのは、自然法則じゃないですか。でも人間なにが問題かというと、老いたり死んだりすることにおびえたり、それを嫌悪して、なんとか遠ざけようとしたりすることです。そこで、また別な苦しみ、余計な苦しみが生まれることになるのです。それは、あえて作った精神的な苦です。しかし、この苦しみにもまた実体はない。

肉体が壊れていくこと自体は別に普通のことなので、それ自体は存在苦と言いますか、存在そのものとセットになっている苦なので、ある意味どうしょうもないことです。腕をつねったら痛いのは当たり前でしょう、くらいの話ですよね。しかし、その当たり前の真理としっかり向き合うことを生命はだれもが避けている。「不老」「不死」とは、その矛盾を突いた言葉なんです。

お釈迦さまは要するに、老いること、死ぬことをまったく恐れない、特別視して怯えない境地を「不老」「不死」という単語で表現しているのです。これは人間に限らず、ふつうに生きている生命体にはあり得ないことです。老いも、死も、恐怖とセットであって、恐怖を欠いた老いも死も存在しない。そういう意味で、仏道を完成して無執着に達したならば、もう老いることからも、死ぬことからも、解放されているのです。

――そういう境地に達している人は現代社会にいるのでしょうか?

いるでしょうね。じゃぁ、どのくらいいるのかと訊かれても、それはわからないですけれども、スマナサーラ長老に伺ってみると、「瞑想をして結果を出してる人は割といますよ」などとさらっと仰っていますが……。

ただ、われわれにそのような人たちのことがあまり見聞できないのは、結局、解脱に達した、煩悩が無くなった人というのは、自我意識がないからです。基本的に自己主張がない。

「おれが、私が、覚った」っていうことは、私という実感がない人にとって、文章として成り立ちませんよね。私が覚ったっていうのもおかしいじゃないですか。違和感がありすぎて、そんなこと言えないですよ。「あなた、覚ったの?」と訊かれても、「えっ?」としか答えようがない。

だからそういう意味では、「ハイ。私、覚りました」っていう人はいないんじゃないでしょうか? 解脱・涅槃に達したといっても、普通にニコニコして生きているし。他の人と変わらないで生活しますからね。見た目ではわからないと思いますよ。

――それはインドの言葉でいうとどういう? たとえば阿羅漢とかという呼称もありますが。

阿羅漢というのは究極的な覚りに達した聖者のことです。お釈迦さまと同じく、輪廻から完全に解放された方ですね。阿羅漢がどれだけいるかというのもよくわかりませんけど。
繰り返しになりますが、仏教の考え方に慣れると、そういう問いの立て方自体、なんかちょっと変だなと思ってしまうんです。

もちろん、瞑想してその人が心の安らぎを得ることもなく、なんの結果もないっていうのは、おかしな話です。結果はあるんですけど、その結果というのは、肩書きが増えるとか、勲章をつけるとか、そういうことじゃない。覚ったら、いきなり頭から角が生えてくるっていう話ではないのです。自我の幻覚に苦しむことなく、ただ普通に生きている。それでいて、生きることに執着がない、葛藤がないという境地の話なので、なかなか一般の人には良くわからないかもしれないですね。

2007年に一時出家修行した際の佐藤氏(手前)。僧名:ナーギタ

――第三者に検証してもらうというようなこともないのですか?

基本的に自分で自分の心をチェックすれば、わかることなのではないでしょうか。

初期仏教の場合、自分の煩悩というか、心の汚れということが基準になっています。このインタビューの第一回目でもお話したように、初期仏教の四段階の解脱論で、第一段階の覚りである預流果(よるか)では、①有身見(うしんけん)、②疑(ぎ)、③戒禁取(かいごんじゅ)という煩悩がなくなります。

①有身見が消えるとは、要するに「わたし・我」が存在するという強固な思い込みが消えることです。有身見が無い人には、当然、②疑もありません。「わたし・我」を前提とした世の中にある様々な宗教や思想・哲学と、そういう前提を突き破った仏教とを比較して、天秤にかけようという発想自体が消えているのです。有身見と疑が無い人には、当然、③戒禁取もありません。誰でも最初は、一種の期待や信仰、怯えや思い込みと混ぜこぜで仏道を歩んでいるものです。そういうバイアスが晴れることで、仏道を歩むことになんの心理的な葛藤もなくなるのです。

――なるほど。でも有身見と疑と戒禁取の関係性はまだちょっとピンとこないですね。もう少し詳しく説明してもらえないでしょうか?

前にも触れましたが、仏道を歩むとは、「わたし」を前提に成り立っているはずの世界で、その「わたし」が無いもののように観察モードで生きることです。これは錯覚の世界を強引に壊す営みですから、必ず葛藤が生じます。その葛藤が、仏教の本筋を外れて、なんとか「わたし」を前提とした世界に捻じ曲げようという煩悩の形を取って現れるのです。その煩悩を三つの角度から説明したものが、有身見と疑と戒禁取です。

たとえば、瞑想する人のなかでも、超能力だとか、神秘体験だとかをやたらに求める人たちがいますよね? 彼らのことをよくよく観察してみると、どこかで「無我」を認めたくない、「わたし」というものを肯定したいという葛藤(→疑)がチラつくんですね。無常・苦・無我・因果法則という真理を素直に認めたくないから、何か神秘的に「わたし」を美化したような珍妙な観念を捏造してしまう(→有身見)。彼らは、無我を発見するための仏道修行を、自我の幻覚を美化して強化するものに捻じ曲げてしまう(→戒禁取)。

そういうわけで、ものすごく熱心に瞑想して、瞑想の達人のように見えても、有身見と疑と戒禁取にがっちりしがみついているケースはよく見られます。そういう人々は、そのうち仏教を捨てて新しい宗教を始めてくれるので、放っておけばよいとも言えますが……。この世界がそもそも「わたし」という幻覚を前提にして動いているのですから、そういう修行の落とし穴を完全に塞ぐのも難しいですよね。

とにかく、有身見と疑と戒禁取という三つのチェックポイントを頭に入れて、真摯に自己観察すれば、最低レベルの覚りに相応しいかどうかくらいは、おのずとわかるはずです。それって、第三者に認定してもらう必要はないですよね。


――「わたし」という幻覚を守る三つの煩悩の有無をセルフチェックするのだと。覚った人の心境を理解するためのモノサシみたいなものは他にもあるんでしょうか?

在家向けにお釈迦さまが預流果(第一の解脱)について説明した経典もたくさんあります。煩悩論だと専門的でちょっと難しいので、誰でもわかりやすいキーワードに落とし込んだんですね。そこで語られているのは、仏(ブッダ)・法(ブッダの教え)・僧(法を実践して解脱・涅槃に達した人々)という三宝への信頼(信)が確立していること、それとブッダの示した道徳的生き方(戒)が確立していることです。

仏教でいう信とはいわゆる宗教的な信仰ではなくて、理性的に納得して信頼しているということです。「自分が拠りどころにするのは仏法僧です」と、こころになんの無理も躊躇も強ばりも欺瞞もなく、堂々と言えることですね。

道徳的生き方(戒)が確立しているとは、他の生命を傷つけない、自分の心を汚さないという戒律の「こころ」がしっかり身についているということ。たとえば、目の前に蚊が飛んできた時、われわれは反射的に、バンと叩いて殺してしまったりします。さらに、自分に都合の悪いことは、とっさにごまかそうとしがちです。それで、普通の仏教徒だったら後で後悔して、「やっぱり、まずかったなぁ」などと思うものです。

道徳的生き方が確立している人は、身構えて歯を食いしばって「殺さないぞ」と思うまでもなく、他の生命をまず「殺せない」し、あえて「正直に生きるぞ!」と力まなくても自然体で「嘘をつけない」んです。自分をごまかせないんですね。

心理学的に分析すれば、嘘というのは「わたし」が現実の中でまずい状況に陥った時にその場をごまかして「わたし」を守ろうというこころの働きです。ですから、確固たる「わたし」があると思っている人にとっては、嘘をついてでも「わたし」を守ることが当然、優先されるのです。それが当たり前なんですね。でも、「わたし」とはその都度こころに現れる幻覚に過ぎないと知っている人にとっては、わざわざ嘘をついてまで自分を守ろうというモチベーションがないんですね。

――第一の解脱といっても、なかなかすごい心境ですね。

もちろん、預流果に覚ったといっても、まだまだ修行中で完璧なウルトラマンではないから、様々な判断ミスをしたり、失敗したり、ということはあります。『宝経』という経典には、預流果に覚ったら「それから修行をさぼっても七回しか生まれ変わらない」とか、「六重罪(親殺しやブッダを傷つけることなど)を犯すことはない」と説かれています。

覚ってもダラけたら七回は生まれ変わっちゃうなんて完全な解脱から程遠いですし、六重罪というのはトンデモナイ重罪ですから、「覚ったのにたったそれだけなの?」と拍子抜けしちゃうところもあります。でも、裏返してみれば、われわれは預流果にでも覚らない限り、何をしでかすかわからない二本足の核爆弾のような存在であり続けているのだ、という戒めでしょうね。

もう一つ、預流果に覚った人の特質として『宝経』に説かれている言葉が面白いんですけど、「かれが、身体・言葉・こころでほんの僅かでも罪(十悪)を犯したならば、かれはそれを隠すことができない」というんですね。

ふだんの生活を振り返ってみても、われわれはしょっちゅう失敗や過ちを犯しますよ。それはいいんだけど、仏教的に問題なのは、その過ちや失敗を隠そうとすることですね。自分を善い人間に見せようとする煩悩、カッコつけようとする自意識が、自分自身と正直に直面することを妨げているんです。

禅宗では「悟後の修行」ということが言われます。先ほど述べた有身見と疑と戒禁取を破って、自分に正直に直面できる、理性的な仏教徒(預流者)になって初めて、欲や怒りなど他の煩悩にも挑戦状を出せるのです。自意識の錯覚を見破って、自分を飾らなくなったからこそ、己の汚さにも直面できる。そこから始まるのが、ほんものの修行ともいえるかもしれません。だから、お釈迦さまの仏教では、悟後の修行どころか、「悟後が修行」なのです。

ダラダラとお話してきましたが、覚りに達した人が、「私はもう覚りましたから」などとアピールすることはちょっと想像できません。基本的にそういうことに関して自己主張するという気持ちは起こらないと思います。

さらにもう一つ覚りのチェックポイントをダメ押しで挙げるなら……経典を紐解いてみると、ブッダの指導を受けてなにか精神的な境地を体得した人、お釈迦さまに心服して在家仏教徒になると宣言した人々は、一様にお釈迦さまのことを褒めまくるんですね。こころの解放へと導いてくれた釈尊に感謝しまくるんです。

お釈迦さまが、自分など幻覚に過ぎないと知らしめてくれたんです。そして、それこそが究極の安らぎ・生命が達するべきゴールであることを教えてくれたんです。だから、覚ったというなら、ブッダへの称賛と感謝の気持ちが全身からこみ上げてこないとおかしいわけです。お釈迦さまは目の前にいないから、ダイレクトに「お釈迦さま、ありがとう!」とはならなくても、ブッダの教え(法)やその人に仏教を教えてくれた師匠(僧)へのリスペクトが先に立たないとね。

有身見など三つの煩悩が完全に消えたこと、仏法僧への信頼と道徳的生活の確立、自分の過ちを隠せない素直さ・正直さ、お釈迦さまへの感謝とリスペクト。「おれ、覚ったんじゃないかな?」という気持ちになったら、そんなところをチェックしてみたらいいのではないかと思います。

――もう一度確認しますけど、自我がないということは、「私」という見方が自分に対してできないわけですか。

確固たる自我なんて元々ないのです。認識過程で無理矢理作っている幻覚なわけですから。幻覚を作って、それが自分だと思っているんですから。幻覚を自分だと思うその条件反射がなくなることで、「そんなに(ありもしない)我を突っ張らなくてもいいんじゃないか」というふうに、自然とこころも変わりますよ。もちろん、日常生活は普通にこなしますし、日常的な会話もするでしょうけど、そこには特別な「わたし」の計らいがない。

――そうすると、自分の状態を言葉にできなくなるのではないですか。

もちろん、覚った聖者でも、日常会話では「わたし」という単語を使います。お釈迦さまだって日常的な会話を成り立たせるレベルでは「わたし」と仰っている。それは現象世界の「お約束」ですから。でも、解脱・涅槃について語るときに、「私が覚った」っていうことはちょっと成り立たないんです。「私が」っていうと、どうしても違和感が出ちゃって、言えないんですよ。私という幻覚が消えているんだから。「どうやって、私が覚るの?」って聞き返したくなっちゃうんです。

余談ですけど、みうらじゅんさんが「自分探し」じゃなくて「自分なくし」をしよう、みたいなことを仰ってましたよね。みうらさんは仏教をすごく勉強されていて、「自分なんか無いほうがいいんだ」とか、「自分をなくすほうが楽しいんだ」とか。あれ、仏教の本質を突いているのです。ある意味で、修行というのは「自分なくし」を実践することなのですから。そのほうが楽なんだなと、しみじみわかることです。



佐藤哲朗(さとう・てつろう)


佐藤哲朗(さとう てつろう)
1972年、東京都生まれ。東洋大二部文学部印度哲学科卒業。ライター・雑誌編集者などを経て2003年から日本テーラワーダ仏教協会事務局長を経て現・編集局長。インターネットを通じた伝道活動、アルボムッレ・スマナサーラ長老の著作編集などを担当。単著は『大アジア思想活劇――仏教が結んだ、もうひとつの近代史』『日本「再仏教化」宣言!』サンガ。共著に『日本宗教史のキーワード』慶應義塾大学出版会などがある。

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