氷川渉 前半

氷川 コクボっぽい声は、俺の声やな。

女1 録画、開始しました。

氷川 はい。

女1 開始しました。

氷川 はい、じゃあ。
男1 この、終わるまで待たなくていいんですか。
氷川 ええんじゃないです、時間ないし。
男1 ああ、そうですか。じゃあ、ちょっと、音を、音量は下げて。
氷川 はい、オッケーです。
男1 それでは放送を開始したいと思います。今回の企画ですけれども、最初にキンドル版のご著書があったんですけれども。
女1 マイクの音が小さいんですけど。
男1 マイクの音がちさい。
女1 こっちのほうで。
男1 こっちで。
氷川 マイク、取らはったら、いいんじゃないですか。
女1 お客さんのほうも聞こえてないんじゃないかね。

男1 皆さん、こんばんは。ようこそいらっしゃいました。今回の企画は、私のイベント、明日あるんですけれども、それをやれっていう話が最初あったときに、ちょうど彼がキンドル版の本を出していて、それが紙版の出版につながるかみたいな話になっていたときだったので、それだったら一緒に記念講演というか、イベントでしゃべっていただいたらいいんじゃないかというようなことを思い付きまして、急遽、今回2日連続ということで、ぶっ込んできました企画の1日目の企画ということです。ところが、実は企画、立てつつも、彼のことは、実はあまり知らないんですよね。
氷川 2回目ですからね、直接お会いしたのは。
男1 ですかね。じゃあ、まず、お名前から、ちょっと自己紹介というか、しゃべっていただけますか。
氷川 どうも、こんばんは、筆名、氷川渉と申します。ちょっとパワーポイントを立ち上げましょうか。こうか。『指導という名の欲望』という題で執筆して、キンドル版を出しております。副題は、今回は、『左翼は既に死んでいる』、『北斗の拳』みたいな題ですけど。それだけでは、ちょっと、あまりにも面白くねぇというか、身も蓋もねぇなということで、共産主義運動自滅の先にあるものは、自分なりに、どのようなことであるかなぁと。やっぱり、今の時代って、すごく生きにくさを多くの人が抱えてると思うんですよ。それは、昔は抑圧とか、搾取とか呼んだんですが、それに限らず、そんな図式立ちで説明でけへんようないろんなもんがあるなぁと思ってて。かつて、解放するはずやった共産主義運動が、全然ただの抑圧になってしまった。なんで、そないになったんやっちゅうのを書いてみいひんかと、ある人に誘われて書いた本です。ちょっと時間内で。まず、共産主義者としての僕の履歴ですが、1965年、大阪のとあるところで生まれました。72年、同和教育モデル校という小学校に入学しました。何か、いきなりこんなん出てきたら、何やていう話ですけれども。 氷川渉『指導という名の欲望』

『北斗の拳』
男1 ごめんなさい、ちょっと。共産主義者ではないということですか。
氷川 共産主義者ではありません。そんな偉い者にはなれません。
男1 共産主義者というのがいるんですか。

氷川 共産主義者というのがあります。これは何かというと、共産主義とか、ソ連とか、あるいは、最近やったら中国、北朝鮮、こういったものをウォッチして、あれこれ解釈したり、楽しんだり、おちょくったり、いろんな形あるんですが、そういった共産主義を趣味のように扱う人たちのことを共産主義者やというふうに理解しておりますし、自分もそういう人間かなぁと思います。

その自分が共産主義者になった一番の背景にあるんは、多分、小学校の教育やったかなと思うんです。何かっちゅうたら、同和教育、すごいのがありました。どんなことやってかっちゅうたら、部落解放同盟という団体が教育に思いっきり介入していました。私、そういう町に生まれ育ってて、いわゆる被差別部落の人にも幼馴染、何人かおるわけです。

忘れられないのは、あれは1975年だと思うんですが、その前の年に石川青年っていうのが、この方は1964年かなに逮捕されて、狭山差別裁判っていうのがすごく社会問題になってた時代なんですけれど、被差別部落の子がゼッケン付けられて、壇上に上げられて、石川さんは無実だという運動に、小学校でそういった集会があったんですよ。これを公教育への介入でないとしたら何なんだろうと。そんな難しい言葉は知りませんけれど、そんなことを感じたわけですよね。それから、平和やとか、人権やとか、そういった概念、とりあえず、眉唾グッチョリ付けちゃうような子どもになっていきました。これは大阪の子全般そうやと思います。ということが、まず背景にあります。

次、78年に、そういう教育にあがって、正直言います、そういう教育にあがって、中学校、その地元のとこ行くん、とてもやない、こんなん、あと3年も続くん、やってられるか思うて、私立に行かせてもらいました。そこがカトリックの学校で、カトリックの教育を受けました。どのぐらい受けたかっちゅうたら、「天にまします我らが父よ。願わくは御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを」とスラスラ言えます。そのぐらいは教育受けてます。ラテン語では、「〓グラディナプレナドメステクモ〓」と、こういうのも言えます。そのぐらい。
これ、何が大事かと言うたら、ヨーロッパの思想というのは、背景にベットリとキリスト教とユダヤ教が張り付いてます。マルクスも例外ではありません。あとで、ちょっと触れますけれど。だから、共産主義者にある素養は、そこで、もう培われたかなと思います。

とはいえ、80年にマルクス読んで、分かりませんでした。

次ですが、大学というより、大学の寮に入ったら、大学の寮っちゅうのは、当時は学生運動の拠点でして、中に中核派がいました。中核派が言うてること、おかしいで。彼らが依拠してるっちゅう、マルクスやレーニンって何者やねんと思って読み始めたら、これがなかなか立派なもんだなと、大したもんだな。それで、当時あった大月書店、国民文庫、ほぼ全巻。ひいては、マルクス、エンゲルス、レーニン、ほぼ全巻。というか、マルクスは全部やったと思いますが、全集読みました。それを根拠に中核派が若い衆、私も上回生になりますんで、になったら、1年、2年、オルグに来るでしょう。それ、つぶしてました。オルグクラッシャーというあだ名を付けられました。でも、そんなに険悪じゃなかったんですけどね。

その中核派に誘われて、87年に三里塚に行きました。いやー、当時の三里塚、何もないですね、素晴らしい農村です。そこに異質な、無機質な空港。うーんとか思いながら、でも、〓知ったん〓ですが。その前の86年の10月20日の大闘争っちゅうのんで、いっぱい逮捕者出たんですが、それとは違って、この日は平和でした。ただし、中核派と一緒に行ったいうて、すげえ、こう、おまえ、何、行っとんやねんなぁっていうて、つねられました。はい。よい思い出かなと。

そのあと、そのころ、なんでか分からんのですが、何でしたっけ、タイプライターっちゅうのに興味を持ちまして、タイプライターをバンバン、バンバン打ち込んでたら、その横には、パソコンが当時はびこり出してまして、先輩のパソコンがあったと。何か面白がってタイプライターの練習になる思うて、いいだももさんって、もう亡くなりましたけどね、いろいろ言われてる人ですが、共産主義的には香ばしい人なんですけど、『いまマルクスが面白い』っていう本を、いろんな人、花崎皋平とかおったかなぁ、ちょっと忘れたんですが、そういった人らと本を出されていて、これ、ちょっと練習に打ち込んだれ言うて、電子化しました。これが共産主義の入口ぐらいなもんかなぁと。そのあと、どうせ入れるんやったら、国民文庫、入れてみんかい的なことを、僕のマルクス主義の師匠に言われて、入れ出しました。これが一部の世界で、ごく一部の世界で有名な国民文庫の電子版の始まりです。これは、ちょっと今中断してますが、またいつか再開したいなと。かなりの数やってます。

91年入社したんはいいんですが、93年に青森に転勤になりました。そこで、青森ってすごいとこですよ。今の季節やったら、3時になったら、もう暗いです。ほんまに夜が長い、冬は。雪に、雪というか、氷に閉ざされます。

そこでインターネットというか、パソコン通信を始めて、そこで赤軍愛好会っちゅうものを知って、共産主義をデビューしたと。
狭山差別裁判


WIKIPEDIA→「三里塚闘争(さんりづかとうそう)」
千葉県成田市の農村地区名称である三里塚とその近辺で行われた(行われている)、成田国際空港建設に反対する闘争およびこれに関連する事柄のことを指す。成田闘争とも呼ばれる。
WIKIPEDIA→「成田空港問題」
1986年 10月4日:警察官3名が殉職した東峰十字路事件の判決で、千葉地裁は被告55人のうち52人に執行猶予付きの有罪判決、3人に無罪判決を下し、実刑判決を受けた被告はいなかった。



花崎皋平

赤軍愛好会

男1 じゃあ、ちょっと、ザックリまとめてしまうと、反共主義的な共産主義者として出発して、最近は共産主義者のほうに接近しつつあるという感じですか。


氷川 行ったり来たり、行きつ戻りつ、よく分かりません、自分でも。ただ、マルクス、レーニンに対する尊敬はすごくあります。

95年に阪神大震災ありましたね。そのときの某首相の対応を見て、こいつらに僕ら殺されるな思うて、そのとき頭に浮かんだ言葉は、溺愛の国家機構をプロレタリアとそのまま用いることはできないという、マルクスの言葉ですかね、が、なぜか頭浮かんで、ものすごく極左化して、こんな体制、ほんまにつぶさんと、わしら殺されるで思うたんですが、そのとき、左やともくされていた人たちが、3月の20日ですね、オウム事件ありました。そのあと、何か当時の左の人って、オウムを擁護しまくるんですよね。国民っちゅうのは、基本的に暴力を国家にあずけてます。ところが、むき出しの国民が武装集団に襲われてるときに、彼らは国家の肩を持つんじゃなくて、オウムの肩を持ちました。その瞬間、これは駄目だ、こいつらと一緒にやっとったらあかんわと本気で思いました。それから、かなり左からは心離れました。

2002年の〓ウチワダイゴ〓という、忌まわしい事件があって、さらに左翼とは心が離れ。何か怖いこと書いてますが、あとで触れましょう。
男1 すいません、端的にいうと、左翼とか右翼とかっていう区別でいうと、どちらとかっていう感じになるんですか。
氷川 どちらかといえば、右翼だと思う。というか、極右かなと思ってます。


男1 仕事的には、普通の。
氷川 普通のサラリーマンです。
男1 普通な感じなんですけれども、そういう何か恐ろしげな背景のありそうな共産主義者として、これから、いろいろ共産主義について、その攻防について語っていただけるわけですね。

氷川 はい。
男1 それでは、じゃあ、1時間、よろしく、みっちりお願いいたします。
氷川

 はい、では、ちょっとオーバーしたらすいません。『指導という名の欲望』を読まれた方、何人かおられるとのことなんですが、ありがとうございます。

言いたかったことは、マルクス主義の本質は、僕は科学とは思っていません。それから、共産思想、共産主義と言ってもいいんですが、ちょっと区別するために、共産思想と言いますが、本来、どこにでも混在してる当たり前の人間の欲望の1つやないかなぁと思うてます。ちょっとあとのほうは、ちょっと飛ばしますわ、時間ないんで。言いたかったことは、どうして共産主義運動は悲惨なことになるかというのに絞って説明、まずはしたいと思います。そのあとは、そのあとの展望でということですね。そういう内容にしたいと。まず、共産主義っちゅうのは、自分では、共産思想と言ってもいいんですが、何かといったら、ある欲望を持った体系の1つやと思っています。この欲望自身には善悪はないです。どうも欲望いうたら、悪いことのように思いますが、人の役に立ちたいとか、何か人助けしたい、これも僕は欲望だと思っています。それ自身は純粋で、別にいいんですけれど、マルクス主義流の共産主義になると、歴史を見ると、この本の題になってます、『指導という名の欲望』にまみれてしまったということで、これは普通の政治的な、何ていうか、抑圧とかよりひどいことだと僕は思います。何がひどいかというと、抑圧とか、例えば暴力的な圧政とか、そういったものは人間の心まで支配できません。ところが、共産主義の指導者というやつは、指導という形で人間の内面まで支配しようとします。僕は、これは非常にヤバいことやと思ってます。それを可能にしたんは、僕は彼らの時代遅れの世界観やと思うてます。ここにちょっと書いてますが、ちょい読み上げますと、心理を取り上げていると、あるいは、もっと端的にいえば、党幹部ですね、党幹部は常に正しい。それが彼らの世界観です。常にそのトップのあれは正しいから、無知な大衆を指導する権利と義務があるというふうに考えてます。反対する者は、気が触れてる、おかしい、あるいは、階級の敵だから、そういう決め付けをするというか、しちゃってきました。なんで、そんなことになったかっちゅうのを、彼らの哲学というか、思想から掘り起こして説明すんのもいいかなと思ってます。

最後に赤い字で書いてますが、これは、とある、この間見て、どう考えても革命の物語やなっちゅうアニメがありまして、「まどか☆マギカ」というんですけれども、それの中の登場人物である、百江なぎさちゃんの言葉をもじってますが、「かつて希望を運び、いつしか呪いを振りまいた考え方」というか、「呪いを振りまいた者たち」ですね、現代では。それって、どう考えても共産主義のことやんというように、そのアニメ見たとき思い出しました。

はい。こっから、ちょっと、マルクス主義の歴史的な概説で、今日の話につながってくるところのポイントだけ言うていきますと、まず、マルクスっちゅうのは19世紀の人です。19世紀は、今では近代とよく言われます。近代は、だんだん成熟していった時代です。中世は、中世、その前の時代、中世ですね。ヨーロッパではキリスト教、カトリックが国家や民衆を支配していました。ところが、絶対的な権力は絶対的に腐敗するように、このカトリックという考え方が、国家とか、いろんなものを支配、全部支配しとったんですけれども、腐っていきます。それに対する反発心は当然起こってくるわけで、マルティン・ルターとか有名ですよね。そういった人たちが、もうカトリックあかんでぇ、そんなん、いてこましたれとなりました。そういったふうに考えた人たちは、神と直接的に対話する、聖書に依拠して対話する、そういう考え方を持って、カトリックっちゅうのは教会の団体です。プロテスタントは個人の考えです。そういった2つのところにキリスト教世界が分裂しましたと。当時、大事なのは、宗教は国家を支配してました。となると、国家対国家になると戦争が起きます。人口が減るような戦争を何遍もやって、結果、どないなったかっちゅうたら、疲れ果てて、もう、世俗のことは世俗でええやん、国家と宗教は離してまえという考え方が力を得てきますと。となると、人々は神から離れていきます、宗教から離れますからね。自分たちで自分たちのことを考えなあかんと。神様には任せてられへんということで、ゴタゴタといろいろあったんですが、流れ的には、そういった考え方から無神論っちゅうものが生まれてきます。この無神論っちゅうのは、経緯見たら分かりますが、キリスト教の文脈から出てます。だから、思いっきりキリスト教の影響が見えます。これは読んだ人は分かります。ということで、そういったことだったと。

それから、そういった素晴らしい考え方だと、特に当時、力を得ていた商売人が思うわけですね。商売人が思って、啓蒙思想が生まれて、カントやとか、あるいは、マルクスの師匠のヘーゲルとかいう人たちが生まれてきます。ここまでの流れは、観念論。観念論って何かといえば、自分の考えがあるから世の中はあるんだという考え方。いろいろあるんですよね、細かいこというたら。まぁ、そんな感じです。そういった人たちは、すごい理想主義者です。そういったヘーゲルまでのいろんな人たちの考えがあって、そういった論争があって、そこにマルクスやエンゲルスが飛び込んできます。

この絵で見たら、左側がマルクスで、右側がエンゲルス。ひげもじゃのおっちゃんで、ひげマニアというか、特にエンゲルスなんて、ひげがうまく生えたらパーティーするようなほどの、何ていうか、好き者というか何というか、別の意味の好き者でもあったとは言われとるんですけれども、そういった人たちです。偉そうですけれど、彼らも若いときから、どんどん成長して、自分の思想をつくっていきました。

ヘーゲルの観念論は、人間の主体っちゅうものをすごく大事に突き詰めるんですが、人が生きてる世の中っちゅうのは、自分の力じゃどうしようもない周りの世界というものがあります。そういったものを突き詰めて考えていったら、ヘーゲルの考えから、唯物論にポンと飛び出したと僕は思ってます。でも、そうはいっても、唯物論いうても、客観的な世界があるとか、うんぬん、くんぬん言うても、結局は、僕は信仰の世界に過ぎないから、広い意味では観念論の一部なんやないかなぁと思うてます。これ言うたら怒る人おるから、もうしませんけども、僕はそう思ってます。

エンゲルスっていうのは何者かっちゅうたら、マルクスのお友だち。マルクスの生活を支えた人ですね。マルクスが主導的で、エンゲルスは第2バイオリンとか、何や、そういった言い方ようしますが、エンゲルスはエンゲルスで、すごい独自の考えがあるかなと。マルクスっちゅうのは、ひっちゃかめっちゃかで人格破綻者やと、彼の伝記を何個か読んだら思いました。エンゲルスは、それに対して、すごい紳士です。そういった差があります。でも、この2人の異なる人格が、人類史にすごく大きな影響を与えたかなと思いますね。唯物論といえば、ドイツ・イデオロギーとか、ちょっと、そんなん、いろいろあるんですが、ちょっと、いっぱいやっとったら時間がないんで、飛ばし飛ばしになるんですが、大事なことだけ言うていきます。世の中変える思想として、マルクス主義っちゅうのはありますよね。でも、世の中変えるって、本質的には、僕は暴力革命、暴力を担保しないとできないんで、暴力っちゅうたら、みんな、思いっきり、殴り合いとか、戦争とか思い出すけれど、それだけじゃありません。法律に従うことも、背景には暴力がある。法律をつくることも、端的には暴力である。

ヴァルター・ベンヤミンという人は、法措定的暴力という言葉を言いましたが、僕は法律をつくるときも、それを維持するのも、もう、暴力やと思うてます。それを無視した革命論なんて、ナンセンスっちゅうか、欺瞞(ぎまん)やということを、まず言っときたいですね。

それから、マルクスといえば、労働価値説といいますが、これも、よう出てくる言葉ですけれども、人間、働くから物ができるのであって、非常に素朴な感覚の学説です。そういったものに基づいて、マルクスはいろいろ言ったかなぁということですね。ちょっと、この辺、直接関係ないかな。あと、マルクス的なところ、マルクスの考えをうまく言えないんですけれども、よお言われるんは、共産党の諸君はマルクスが自由と民主主義のために戦ったというけれど、それは一面正しいんですけれども、彼が若いときに明らかにした自由や人権や民主主義っちゅうものは、背景には階級っちゅうものがあると。何かっていうたら、働く者と働かせる資本家ですね、という言い方あるんですけれども、そういったもののどちらの味方するんやということを一生懸命暴いていって、われわれが生きてる資本主義社会における自由や民権、人権や民主主義というものは基本的に資本家のためのものであるというふうなことを言ってます。これ、非常に大事である。ちょっと待ってくださいね。これ何か、そっか、それでいいんだ。そういったことで、マルクスやエンゲルスっちゅうのは、いろいな自分の思想っちゅうもんを、どんどん突き詰めていっとるんですけれども、資本論、よく出てきますよね。この本が、ものすごく偉大かなとは思うんですけれども、彼はそれによって何を言ったかというと、世の中は、資本主義の世の中はいつか壊れるやろと言った、言うとんですよね。でも、実際はそんなこと起きてません。そこら辺が、マルクス、エンゲルスの時代には、十分、分かっていなかったこと。

ただし、問題で、ちょっと、ごめんなさい、いろいろゴタゴタ言い過ぎて、頭の中、パンクしそうなんですけれども、マルクス、エンゲルスは、自分たちの考えは絶対的に正しいと、科学的確信に満ちていました。もうレジュメ始めます、ああ、外れます、しんどい。宿題のほうに飛ばしますが、もう、ここを見たほうがいいかな。彼らは労働価値説に従って、資本主義はいつか崩壊すると言いました。言いましたけれども、実際、崩壊していないです。ただ、問題となるのは、エンゲルスはともかく、マルクスは特にそうなんですが、いろんな政敵いましたね。バクーニンとか、あるいは、友だちでもあるんですが、ラッサールとか、彼らと闘争するときに、何を、どういうやり方をやってたかっちゅうのを見たら分かるんですけれども、とにかく相手の言うことの片言隻句を使って罵倒するんですよね、マルクスは特に。かなりえげつないです。何かっちゅうたら、とにかく自分が主導権、握らなきゃあ、仕方がない的なところが、妥協するところは、賢いから妥協するべきとこは、妥協しとんですが、とにかく主導して、自分が主導権を握らんと気が済まん的なとこは、すごく強かった人です。それが、後のマルクス主義にすごく影響を与えたかなと思うんですよ。彼が、その自分が主導権を得るためには、客観的に見て誰でも納得せざるを得ないだろうなというようなことを積み上げるのに一生懸命論理を組み立てていってました。それが、それを言うために、彼は科学的。マルクスじゃない、エンゲルスですね。エンゲルスは科学的社会主義というふうに、マルクスの思想を名付けてます。この科学というものが大事なのは、あくまでも19世紀までの科学。ちょっと、またあとで触れたいと思いますが、レーニンのところで。それは、要は、世の中は必然的にいろんなものが決まっていくんやという、機械的唯物論という言い方するんですが、そういったものに従っていたということです。ちょっと、彼の思想の弱点に触れると、階級闘争にせよ、何にせよ、世の中は進歩していくんだという、これ、ヘーゲルという人の考え方に依拠しとるんですが、そのヘーゲルという人の考え方は、何かあって、何かあって、対立し合って、次の段階に進むという考え方なんですよ、現象法という。それはそれでいいんだけれども、現象法で世の中全てって言われたら、老人に近付いた人、どないになるんですか。死ぬ、人間って死んで滅んでいきますよ。それ、絶対、彼の哲学じゃ捉えられません。そこ、すごくヤバいと思うてます。彼らはそれをごまかすために、人類という概念を強く打ち出すんですよね、マルクス、エンゲルスも含めて。どうなんかなぁと。すごい反発があったと思うし、キルケゴールという人なんかは、すごい鋭い批判してますけれどね。そういったものである。進んでいくということは、遅れたものと進んだものがおるということになります。これは、差別の正当化になる可能性が極めて高い。この辺がいろいろこじれて、今のカタカナ言葉の左翼問題につながってるかなと僕は思いますね。二大階級の文化というのは、資本家と労働者の対立とか、そういったものがなくなるかなと。

あっ、そうそうそう、ごめんなさい、1つ。遅れたものといえば、民族問題。
エンゲルス「遅れた民族は滅びるべきである」いうことを言ってます。
これが、どんだけおぞましいことかは、アジアに置き換えましょう。20世紀初頭、僕は不幸な歴史だと思うんですが、朝鮮半島を日本が併合しました。はっきりいって、あのときの朝鮮のエリート層やってたこと、むちゃくちゃです。遅れてます。滅んで当たり前やとまで思います。ところが、それ、日本人に言ったら、どう思います。ヤバいでしょう、駄目でしょう。
でもね、彼らの発想、そして、日本の一部の右派の言ってるような歴史観っちゅうのは、この、まさにエンゲルス的な考え方なんですよね、僕の目から見たら。どうなんかなと。そういったものにも根拠を与えてますね。それから、先ほど、批判した、自然科学に支配された必然の法則。必然の法則ということは、正しいことは未来にわたって分かってるんだという人を、機械的唯物論に基づいて、俺は真偽を握ってるんだという思い上がりですね。そういったものを可能にしました。そこら辺が、ちょっとマルクス、エンゲルスの思想の問題点。そして、指導という名の欲望という言葉で語られるべき問題点かなと思います。ちょっと、ここはちょっと飛ばしましょう。そうですね。

マルクス、エンゲルス、ドイツの人です。マルクスは、すごい愛国的な人ですね。暴力革命は過去のものというのは、19世紀の終わり、エンゲルスがまだ生きてたときも、それまで暴力革命で、当時の暴力革命というのは、バリケードを使って、つくって、デモをして、旧政権の閣僚を逮捕して、反抗してきたら、ぶち殺して、権力奪っちゃえと、分かりやすい暴力革命。
でも、そんなやり方じゃあ、もう、ドイツとか、イギリスとか、特にイギリスはそうですね、無理だと、エンゲルスは言うてました。それをしっかりと受け継いだのが、ベルンシュタインという人です。この人は武装蜂起とか、そんなもん、もうあかんのちゃうかと言うて。

ところが、いやいやいや、それは、でも、世の中、暴力に支配されてるっちゅうのは変わらへんし、革命というものは可能性として、ちゃんと考えとかなあかんのちゃうかと言った人が、ローザ・ルクセンブルク。
この2人とか、いろんな人を巻き込んで、カール・カウツキーですかね、ここに論争が起きます。革命か改良かという問題設定。僕に言わせたら、どっちも要るやろうという話なんですが、考えるべきやろうという考え方なんですが、そこら辺でゴタゴタになっていきました。それがあって、このときは、まだ健全なんですね。一方が正しくて、一方が間違いって、お互いやり合うだけのことが許されていました。それが19世紀の終わりから20世紀の初めの社会主義運動、ドイツが中心なんですが、そういった世界でした。そのときは、まだ、『指導という名の欲望』は弱かったと思いますね。ああ、そうそう、これ、革命のイメージで持ってきました。バリケードをつくって、民衆が蜂起して、こう、旧体制をぶち壊す、そんなイメージですね。そんな論争があったんですが、労働者階級っちゅうものは、決して左翼的なもんじゃ、決してないです。むしろ、右翼的だと僕は思っています。何かっちゅうたら、ドイツが、その後、どないなったかと、この修正主義論争と言われるものがあったあと。第一次世界大戦が起きました。そのとき、労働者の圧倒的多数は戦争に賛成しました。なんで、そうなったかといったら、国家が、いろんな保障とか、福祉とかを準備したら、国家に対する帰属意識を労働者は持ったんですよね。それによって、国家を支持するということになりました。そういうもんかなぁと。この辺はいいです。
ローザ・ルクセンブルクってこんな人で、マルクス主義に恋をした女と言われてますね。まぁ、いいでしょう、今日は。

いよいよ、ここから今日の本題に入ります。
レーニン、そして、共産党。これが、ええ意味でも、悪い意味でも、今の世界の左翼、そして、日本の左翼を呪縛してます。彼は1870年に、だから、19世紀の末、終わりごろ、終わりでもないか、後半に生まれてます。当時のロシアっちゅうのは、ツァーリズムが、という封建主義に支配されていましたが、近代化が必要であって、徐々に変えようとしていってました。それをやったんが、ナロードニキと呼ばれる運動がありまして、それにいろんな革命家が関わって、運動を発展させていったんですが、テロリズムのような手段で、要は、上のほうの悪いやつを吹っ飛ばしたら、世の中、ようなるんちゃうかということですが、でも、なかなかうまくいかなかった。マルクス主義っちゅうのはテロを、全般を否定しません。暴力革命を正面から掲げるのがマルクス主義ですから。でも、テロといっても、ほんまに単独のそういったテロで首をすげ替えても、体が残っとったら一緒やないか。テロでは復讐できないという言葉があります。これはロシアの革命家のトロツキーの言葉ですが、科学的で、客観的で、世の中全体を見通せると当時考えられていたマルクス主義が、ロシアでも、どんどん浸透していきますと。そして、19世紀の終わりにマルクス主義の党ができるということで、その中で、兄貴がナロードニキに連座して殺されたレーニンという男がいまして、ナロードニキとは違う戦い方で世の中変え、ロシアを変え、いろんな運動に、ほんとに関わりだしたと言われておるんですが、ロシアの残酷な〓現実史〓も、彼は、あまりにも知り過ぎていたんかなぁと思うんですが、ものすごく特別なものをつくります。あっ、ちょっとその前に説明すると、プレハーノフという人がロシアにマルクス主義の政党、ロシア社会民主労働党っちゅうものを、1896年かな、につくっとるんですが、その運動方針をめぐって、レーニンという者が、ほかの人たちとすごいけんかを1900年ごろします。それで有名な本が、「何をなすべきか」という本ですが、これが後の共産党のおぞましい体質の根拠になってます。まず、鉄の規律。下の人は上の人に従え。あと、全国制覇、財政の独立とか、これ、レーニン三巻選集とか言いますが、そういった下は上に従えということですね。いろんな保障はあるんです。あるんですけれど、そういった文言が独り歩きすると。それに対して、それ、あかんのちゃうかと言ったのが、先ほど出てきたトロツキー。党内政治においては、この方式は次のことに導く。すなわち、党組織が党全体に変わり、中央委員会が党組織に変わり、そして、最後には、1人の独裁者が中央委員会に変わってしまうといって批判して、いや、レーニンは、いやいや、こういう民主的とおりやっとったら、中では、外に対しては厳しくても、中では、ちゃんと新聞つこうて、議論を活発にやったらええねんとか、やっとるから大丈夫ちゃうんとか、いろいろ反批判やっとるんですけれども、結果的に、このトロツキーの予言は当たりました。レーニン、トロツキー、なんでこんな内輪の人たちが、僕はレーニンがすごく偉いと思うてるからです。ほかの理由はありません。これが、何がヤバいかというと、自分の言うたこと、あの若いころの自分が言うたこと、まぁ、ヤバかったなぁと、レーニン、実は言うとるんですよ。全集読んだら分かります。何をなすべきかは、条件付きで読んでと。ところが、今の日本共産党もそうですが、何をなすべきかは無条件に承認するべき本である的に扱ってます。なんでかっちゅうたら、簡単なんです。党の幹部にとって、これほど都合のええ理論はないからです。自分らの言うことは絶対正しいというのを、レーニンさまが保証してくれた、そういう読み方をしてます、させてますし、してます。これが大変、後にひどいことになっていきますね。ちょっとレーニンが、ワーッて言うて、頑張って、党組織が2つに分かれます。これ、すごいレーニンって陰謀的にやってるので、興味ある人は調べてみてください、僕の本にも触れてますが。

それで、ロシアの労働者の党は2つに分かれちゃいますね。ですが、インテリさま、当時、力のあったインテリさまは、どちらかといったら、民政的にいきました。鉄の規律のボリシェヴィキは、極小勢力に留まってました。そしたら、何か、ボリシェヴィキ、レーニン派なんて消えてもうても、おかしくないんですが、そうはならなかった。ちょっとバンバン飛ばします。あと、飛ばしようがないな。ごめんなさい、ちょっと、いったん。そこで、1905年にロシア革命が、第一次ロシア革命というのがあったと。それが、ポシャッたというあとに、極小勢力のボリシェヴィキ内部で、いろんな動揺が広がります、こらぁ、あかんでと。そしたら、唯物論のマルクス哲学に、他の汎神論とか、経験批判論とか。唯物論ってのは哲学を持ち込もうとする人たちが現れました。それはそれでしゃあないところはあるんですが、それに対する批判も当然、レーニンとかは、やらざるを得なくなって、そうやってできた本が、『唯物論と経験批判論』。この本は唯物論に、自然科学が基礎づけられることを示してくれてます。ただし、いろいろ問題があります。当時の哲学的にはフッサールという人たちの、これは観念論の世界に近いと思うんですが、人間の認識ちゅうのは経験によって、いろんなかたちでつくられるし、見え方なんて世界、みんな違うというようなことが、だんだん哲学の世界では主流になっています。にもかかわらずレーニンは古い唯物論に基づいて、人間は、みんな、世界で、1つの世界、同じ世界を見てるんやったら、同じように見えるというかたちで書いちゃってます。鏡像的認識論という言葉で、一部で言われとるんですが。要は、真理を持ってるという人が見たように、のが、唯一絶対の正しさであって、他の見え方なんかするはずがないと。そんな見え方するのは、頭がおかしいと、そんな考えですね。もちろん、レーニンは偉大な人です。そんな考え方は、後に撤回していってます、そんなもんじゃないと。ですが、そういった言葉をこの本で書いちゃって。この本も共産党の学習指導文献とかつてされる、今でも独習指定文献かな、の中に入っていて、ミヤケンなんか、この本を激奨して、宮本顕治という人ですね。日本共産党の、すごく、ある意味偉い人です。が、激励していた。何かちゅうたら、これも「真理は我にあり、我にひざまずけ」ということを言うとるような使い方に使えるんですよね。はい。というようなことがありました。そこからちょっとレーニン、褒めないと駄目ですね。

1917年、ロシア革命ちゅうものがあります。
最初は2月に、おばちゃんが「パンくれ」ということでデモが起きます。デモが起きて、それまでのツァーリズムといいますか、皇帝というか、ニコライ2世、ロマノフ家のニコライ2世の政権が吹っ飛びます。皇帝がいなくなります。そのぐらいの強烈な激動が1917年2月に、新暦やと1月か、ありました。

政権に就いた人たちは、新しくロシアで独立しつつあった資本主義を代表する自由主義者でしたが、ロシアは、すごい強大な農業国で、資本家とか、あるいは資本家と結び付いた自由主義者。自由主義者といいますが、考え方は一言でいうと、「世の中、銭や」ということです。僕は、それ以上の価値を見いだせません、自由主義については。「世の中、銭や」。うん、僕もそう思う。でもね、僕もそう思う。そういった人たちは、「世の中、銭やー」言うて行ったけれども、まだまだ強大なロシアを支配するだけの力はありませんでした。国内は大混乱になりました。そんな力のない自由主義者ども。

ちなみにレーニンという男は、兄貴がツァーリ体制で殺されたときに、自由主義者に母親が頼ろうとしたら、皆、手のひらを返したように、それまで帝政ってけしからんと言っていたやつらが離れていくのを見て、自由主義者が大嫌いな男になっていました。僕、その感覚は、すごく正しいと思います。そんな自由主義者みたいな無力で口先だけのやつらなんかに世の中、任せるかとレーニンは思っていて。労働者階級が世界を、自分らの権力を、握らなきゃいけないということを思うたわけですね、亡命してた先で。亡命してたスイスから汽車に乗って帰ってきます。この汽車を用立てたんがドイツという。ロシアと当時、戦争をしてた国です。いろんな思惑があって、そういったロシアに来て、帰ってきました。レーニンは、そう思ってたので、ロシアなんか戦争に負けてしまえとか、あるいは、こんな自由主義者が支配してるような政府なんて無力やのに、あんなもん、排除してまえやとか、かなり過激、当時としては過激なことを言うんですよね。これは、『四月テーゼ』というもので、よう言われるんですけれども。ただし、あまりにもぶっ飛んでて、また、自由主義に対する幻想が革命家とか大衆の中にあったんで、レーニンは、かなり苦境に立たされたということです。これ、左っ側が1905年の第一次ロシア革命の写真で、右っ側が、これは、おばちゃんがいっぱい立っていますよね。世の中、ほんまに革命が起きるときはインテリじゃないです、おばちゃんです、生活やってる人です。生活やってる人が立ち上がらないと、革命なんて起きない。それも、ただ立ち上がるだけやなくて、もう、このままじゃ生きていけないと思うこと。さらに、レーニンに言わしたら、権力者の側もそう思うこと。そのぐらいのことがないと、革命なんて問題になりません。ということで、革命は起きた。でも、臨時政府と呼ばれる自由主義者の政府は弱い。弱いけれど、権力闘争だけは一生懸命やろうとします。社会主義者というライバル、労働者というライバルを、勢いを感じて逮捕したり、処刑したりしようとすると。そうなると、自由社会主義者も黙っちゃおれん、そのままじゃおれんということで、労働者が特に逮捕や殺されたりしとったあとに、すごく怒るようになって、だんだんと自由主義者の臨時政府に対する怒りと憎しみが蓄積していきます。7月には、とうとう労働者が武装デモをして臨時政府をぶっ飛ばそうとします。ところが、彼我の力関係を軍事的に、僕は暴力とか軍事というのは技術的に考えなきゃいけないもんだと思います。その観点からレーニンは、いや、今、放棄したら殺されるだけやって言うたんですが、落ちちゃうものは落ちちゃいます。労働者7月、1917年7月に放棄します。ところが、ボルシェビキは偉いですね。自分らが弾よけになったら労働者は守られるということで、いっぱい死んでます、ボルシェビキの人。鎮圧されるんですが、ボルシェビキに対する労働者の信任ちゅうのは、すごく、これで高まるわけですよね。そんなことがあって、ボルシェビキ、えらい、何か口先だけの連中と違うやないかということにどんどんなっていきます。7月には、右派のほうが、いろんな、右派のコルニーロフと言われてますが、この人はどんな人かいうたら、皇帝のニコライ王を逮捕した人ですね。ニコライ王を逮捕したような人なんですが、英雄ですわ。自由主義者から見ても、当時の。それがレーニン派から、これはヤバいでということで、あと、その辺で適当にレーニンのような連中とか、あるいは自由主義者の間に立って調整を図ろうとしてるケレンスキーとか、そんなもん無駄やと、あるいは敵やということで武装放棄して、右の側から臨時政府ぶっ飛ばそうとするんですよね。大変ヤバい状況になるんですが、もうこうなったら、もう平和的には変えられまへんなと、ほんまに暴力革命しかないやとレーニンは思って武装蜂起の準備をします。待てば死ぬと。1日早くても死ぬ、1日遅くても死ぬ、今しかない。旧暦の10月25日、レーニンはクーデターを起こします。冬宮襲撃というので有名ですが、その写真、出てたかな。これの左側ですね。こんな感じで勝利します。中におった閣僚、臨時政府の人たちを逮捕してしまいます。それが有名な「10月革命」。とはいえ、冬宮襲撃と言うてますが、これ自身は、大した混乱はなかったそうです。ところが、都市部、これ、冬宮があったのはサンクトペテルブルクですね、レニングラード、そこは、そうだったんですが、農村では、「ボルシェビキって、何、それ?」というような感じで誰も知りません。そういった中で近代国家の体制を整えていかなきゃいけない歴史的使命が、当時、自由主義者も社会主義者も持ってて、議会制民主主義をまず、つくろうとします。ところが、外国の選挙制度ちゅうのは選挙人名簿ちゅうをつくるんですよね。その選挙人名簿ちゅうもので代表者を選ぶんですが、それが、ことごとく右派が支配していたと。それを、そのまま選挙をやってもうたら、当然、ボルシェビキ、負けます。当時、負けると、選挙で負けるということは、負けた側は逮捕・投獄される、多分、処刑される、そういったことがありました。だから、レーニンは最初、選挙は、もうちょっと待って、名簿を作り直してやろうやと言うてたんですが、いろんな力関係で、もう選挙をやらなきゃいけない。

1918年の1月にそんな選挙がやられて、ボルシェビキ、負ける、惨敗するわけですよね。そしたら、負けるを認めたら右派が政権を握る、革命が吹っ飛んでしまう。どうするかちゅうたら、レーニンは武装で、武力でもって議会を解散させました。これが、いわゆる民主主義派の諸君のウケが今にわたって悪いですが、ここには、僕は日本の、あるいは世界の民主派の一部の諸君、一部ちゅうか多くの諸君ですね、それ、欺瞞(ぎまん)が、これほど現れていることはないと思います。僕は、レーニンが議会、憲法制定会議と呼ばれる議会を武力で鎮圧したのは、暗殺したのは、僕は正解だと思います。まぁ、いいや、そんなことで。でも、これが、こういったことがいろいろあって、ものすごくロシアは大混乱になっちゃうわけですよね。そこから1つの幻想が生まれます。革命政権が始動したら一気に共産主義になれるんじゃないかと、これは幻想だったんですけれども。要は、国家が産業をどんどんどんどん支配して、国有化して全部を支配していったら、経済は命令に従ってうまくいくんやという考えです。そんなはずないやんと言いたいんですが、そういう幻想がはびこったということですね。それをすると何が起きたかちゅうたら、労働者はいいとして、農民は自分らの生産物を拠出させられるんですよね。ところが拠出しても見返りがない、供出したくないじゃないですか。市場がないちゅうのは、そういうことです。そしたら農民が、拠出する見返りがない。要は、工業が壊れてますからね、戦争やら内戦で。そんな状況でいろんなものの生産がうまくいかなくなったんですよね。そこですごい1,000万人が餓死したと一説には言っています。そんな時代があると。レーニンとしては、数少ない食料をめぐって農民を殺すか、労働者を殺すかの究極の選択をせんと駄目になりました。ですが、じゃあ、農民はレーニンに反対したかちゅうたら、レーニンを排除したあと代わりに来るもんは、また昔よりもひどいもんかもしれないという恐れがあった。結局、農民はボリシェヴィキに必ずしも賛成じゃないけれども、これも究極の選択ですね。まだボリシェヴィキのほうがマシやろ的に革命政権をし、消極的にでしょうが支持することになりますね。
何やかんやごたごたがあったんですが、そうこうしてるうちにレーニンは死にます。どこまで行こうかな。その死ぬ前に、いわゆるコミンテルンと言われるんですが、共産主義者の国際的には団体ちゅうものをレーニンがつくってます。これが、また、エグくて、○○○○、世界の社会運動ちゅうのは、基本的には労働者は右翼的になるのですけれども、その中の左派を集めて加入するということですが、これもレーニンがコミンテルン、第二インターに加入することを可能にするための条件ちゅうのがすごく厳しくて、先ほど言うた、「何をなすべきか」の世界観あるいは掟、そういったものを入れなければ駄目ですよと言うわけですよね。要は、幹部の言うことは絶対聞けという党組織は世界中につくったということです。コミンテルンは、その論理の必然によってソ連の応援団になって、各国の共産党を抑圧するものになっていくということです。だから、そういったことは大体、ソ連共産党と各国の共産党の共犯的で、被害者は民衆ということです。というわけでレーニンちゅうものは、特に、『何を成すべきか』という本は、世界の共産党を掌握して、「審理は、我にあり、我に従え、民衆は党に従え」、そういったことを可能にした本を残したという犯罪的な歴史的側面は、確実に僕はあると思います。ですが、レーニンに学ぶべき点ちゅうもののほうが、僕はすごく、ほんとは大きいと思うんですよ。まずは、彼が革命を成功したのはマルクスの公式を無視あるいは破壊したこと。端的には集合主義が成熟しないと社会主義革命は起きないと言ったけれど、そうじゃないということを彼は身を持って証明したわけですね。
なんでそれは可能かちゅうたら、逆説的ですけれど、マルクス主義ちゅうものを完全に血肉化して、ものすごく、よく理解していたがゆえに突破できた。これは学問全体にいえることですが、何か新しい概念、よくパラダイムと言われますが、パラダイム・チェンジというものが起きるのは、それまであったものの考え方を究極までする、発狂するほど。さっき、ちょっと雑談で言うてたんですが、学問の世界ちゅうのは、粛々とするもんじゃありません。もう身悶えて身悶えて、発狂寸前までモノを考えて、実際、学者って自殺が多いんですよね。そこまで考えて、狂うほど考えた人たちだけが、その次ちゅうものをつくることができる。レーニンはそういう男やったと思います。
そして、もう1つは、状況に応じて、ものすごい言うことを変わってます。学び続けました。そして、何よりも自分が責任をとって、どんな身の毛もよだつような決断をやれた、これは、レーニンはすごく偉いところです。そこで彼は、イデオロギーは知りません、彼の細かい中の、ほんまの本心は。そやけど、実践において彼は、必然の法則的なマルクス主義に従ったら世の中はこうなるよねというような図式を、彼は実践によって飛び越えちゃいました。もう今はレーニンって、すごい評判が悪いです。僕は、彼はすごく偉いと思います、今でも。

はい。ちょっとこの写真、左は。右っ側はレーニンとスターリン。この絵が喧伝されて、世界中でレーニンの後継者としてのスターリンちゅうものがよう言われておるんですけれども、この写真、偽造らしいです。ほんとは、レーニンは寝そべってたそうです。
ていうのは、この写真が、撮られたときが、レーニンは、「あーらーら」としかしゃべれないところまで脳みそがやられとったんです。これ、偽造です。
同時期のこのレーニンのおっそろしい顔、見てください、こんな状態だったんです。完全に目、死んで、もう肉体自身が棺桶みたいな状態になっとったんですよね。このあと奇跡的に一時回復したんですが、すぐに亡くなってます。
何が言いたいかちゅうたら、スターリンという男は平気で、うそついてるっていうことですね。レーニンが死んだあと、レーニン廟っちゅうのができます。あれへ行った人、僕は行ってないんですけど、行った人に聞いたら、完全にレーニンは踏みつけにしてると。スターリングとか後の後継者が、あの檀上に立つということはレーニンを踏みつけにしとったんやなということを言う人、いました。

ちょっと時間が、のしてるんですが、中国の革命もすごく簡単にふれます。中国というか、当時の20世紀の初頭はシナと言ったほうがいいと僕は思います。だんだん国家の体を成さなくなっていた清国ですね。大中華もそういうように滅びんとす。日本が明治維新でヨーロッパの文物・文明を受け入れて近代化していってます。それを見て中国も変わらなきゃいけない思う人たちが現れますが、古い人たちにそういった人たちが、ことごとくつぶされていきます。でも、日本から学んだ人たち、いっぱいいました。ここに出てる孫文、周恩来、あるいは文学の世界だったら魯迅、こういった人たちが日本に学びました。彼らは中国革命を準備しました。孫文、駄目男ちゃ駄目男なんですが、カリスマですね。カリスマによる革命が1912年起きますが、ちょっと駄目男だったちゅうのもあって、軍閥っていう軍隊の力、他、自分らに従わない軍隊の力もあって、革命を貫徹できずに「革命未だならず」って言うて死んじゃいます。未完成の革命で軍閥が〓脱却〓して、やりたい放題やる、あるいはイギリス、オランダ、オランダはあったかな、要は、イギリスをはじめとする帝国主義が、中国を食いものにしていくという状態が長く続きます。そんな時代に、1921年かな、中国共産党がコミンテルンの指導で、できます。上海で、できるんですよね。最初は一応、孫文のお弟子とされた蒋介石と協力関係に最初はあります。ところが、蒋介石は共産党の、戦後あるいは指導という名の欲望に満ちたやり方に、どんどん、多分、疑問を抱いていったんやと思います。共産党、これ、とんでもない分野だよと思うようになります。ちなみに、孫文が軍事を学んだのは共産党の〓オウホウ〓軍学校です。これは有名で、どのぐらい協力関係があったかちゅうのが分かりますよね。孫文が死んだあと、国民党は蒋介石。孫文、国民党というのは孫文がつくって、蒋介石が受け継いだんですが、そこが共産党を弾圧するようになります。国家がない中での弾圧とはどんなものかちゅうたら、とてもおぞましいことだろうなと想像はつきますが。1927年の上海に至っては4万人殺されてます。すごい弾圧があったと。中国、だから、もう国民党も共産党も軍隊を持ってですね、ドンパチやっとったわけですわ。それでね、共産党が負けそうになっていくんですよね。負ける理由の1つがソ連の指導に従ったことです。ソ連は都市での革命、労働者革命を目指してました、当時。それに従って、愚直に従って、コミンテルンの言うことに従ったから、中国共産党は壊滅の一歩手前まで行きました。それで、もう都市では、もう、〓きはないよ〓ということになって、長征といって、これの、もともとの、それにあったところを、さらに奥地に逃げていくということをやりました。そのとき指導者になったが毛沢東ですね。はい。なので、ほんとは朱徳という男を入れたかったんですが、有名だから入れとるんです、周恩来、こういった人たちが中国共産党を指導するようになります。中国人がえらい、何にも、共産党の歴史をあとでふれますが、面従腹背、ソ連の国際的権威は認めつつも、ソ連の言うことを聞かんようになりました。実際、〓連絡船なんかも断ち切られとったんかも〓しれませんけど。これが、僕、中国で革命が成功した理由だと思ってます。ただ、そうは言っても共産党はすごい味方を付けていくんですが、どのようなことをしたか簡単に言うと、軍隊が行った先で、困ってる農民がおったら助けて、文物を配ったりしていったわけですよね。そうやって農民を味方にしてるわけです。それまで中国の軍隊・軍人いうたら、一言で言うて、ろくでなし。ところが、中国の共産党は一応、規律はあったということです。

それから、もう1つ、メディア戦略。確かに弱くて、人も少ない。せやけれど、当時は、もうラジオとかも出始めとった時代ですし、いろいろな交通網が発達しだしてた時代で、若者たちにアピールをしたんですよね。それの1つが「三民主義」を継承したと彼らが主張する「新民主主義論」ですね。これに従った、これを聞いた若者たちは、〓エンヤン〓、要は、長征していった先の農村に集まるようになります。
この辺はパール・バックの『大地』、あるいは1980年代に出たユン・チアンの『ワイルドスワン』、こういった小説に描かれてます。すごく希望に満ちていたんだなちゅうのが、こういった小説から分かります。
そうやって味方を、特に若い人を味方に付けた共産党は、その後、1949年の10月、日本の敗戦後、国民党を叩き出して、台湾以外を制圧することに成功して建国しました。何が言いたいかちゅうたら、中国共産党はソ連の言うことを聞かんかったから、革命を成功したということです。これは、ちょっと覚えておいてほしいなと。ということで、ちょっと、いったん休みます。すみません。
(拍手)
氷川 ごめんなさい。
男1 じゃあ、どうしよう。
氷川 はい。
男1 じゃあ、ちょっと後半の。
女1 その間、何か音楽、流しますか。
男1 このあと後半、質疑応答というか、質問等受け付けていきたいと思います。そんな中で、そうですね、中国、韓国の話とか、在特会の話とか。
一同 (笑)
男1 あるいは原発の話とか、そんなような、ちょっとことにふれていきたいと思うんですが。その前に僕から1点だけ、数点だけちょっと聞くと。僕なんかは、さっきのロシア革命のレーニンが勝利していく過程っていう話を聞くと、思い出すのは、やっぱり、決まって『愛と幻想のファシズム』なんですよ。 『愛と幻想のファシズム』
氷川 (笑)
男1 やっぱり、〓村の統治と、指導者〓がファシズム政党をつくって、その権力を奪取していく過程に、非常に丸かぶりというか、まさに軍事の天才がね、暴力を行使していって、権力を握っていく過程に似通ったものを感じてしまうんですけれども、それは、やっぱり、違いますかね。
氷川 まず言わなければいけないのは、エンゲルスの労働者階級、イギリスにおける労働者階級の状態というもので、大昔の農民とはどういうものであったかと言ったら、自分らの世界だけに閉じこもっていたんですよね。ロシアはミールという農民の共同体がありました。その中で世界を閉じてたんですよね。そういったことをわれわれが言えるかちゅうたら、よう世界を知らんということですわ。そういった中では、もう知識人が彼らを、僕は、基本的に代行するしかなかったんじゃないかなあと思うんですよね。マルクス主義はそういった世界より1つ、ほんとは、優れていたはずなのは、また、エンゲルスの話になるんですが、労働者ちゅうのは世界とつながっている、世界が見えているはずだということなんですよね。ところが、ロシアで起きた革命ちゅうのは、労働者は人口の7パーしかいなかった時代なんですよね。そういった中では多分、「代行主義」というようにトルツキーに批判されるんですが、レーニンのやり方・方法・考え方ちゅうのは実際有効であったし、他の選択肢はどうであったかと言われたら、僕は極めて悲観的にならざるを得ないです。だから、うん、『愛と幻想のファシズム』を僕は残念ながら読んでいない、うわさしか知らないんですけれども、あそこに表われている労働者ちゅうものは、〓きのまま〓の労働者じゃなくて、そういった古い、エンゲルスが描いたような農民的労働者じゃないんかなあという気はしますね。
男1 いや、端的に、当時はファシストなので、人民ってのは、それこそ、さっきの百姓と一緒でね、従わせるしかないんだと。理解させることを期待しないでね、使って支配するんだというキャラクターなんで。ただ、そういう世界、価値観的にはレーニンに近いものがあるかなという気がしました。
氷川 確実にはあると思います。

男1 あと、もう1点だけ。さっき、ローザ・ルクセンブルグが出てきたじゃないですか。あれってのは、福島みずほと違うんですかね。
一同 (笑)

氷川 いや、それは労組に失礼でしょう。



会場男1 あっ、すいません。

男1 はい。


会場男1  あのね、あなたね。
男1 はい。
会場男1 あのー、「百姓」いう言葉を使うたら、あかんのですわ、差別用語ですからね。
氷川 はい、まぁ、そういう俗説っていうかね。
男1 網野善彦さんは、逆に「百姓」という言葉をすごく革命的ないい言葉だとおっしゃってたと聞いてます。
男1 まぁね。それは言葉遣いの話だけども。いや、僕的には、つまり、みずほと被っちゃうのはね。ていうよりもローザの話を、また、これは、〓カマタトシヤス〓先生とかがね、引いて、してたんだけども。でも、ぶっちゃけ、そのね、暴力革命を目指して暴れていた女が、要するに殺されて死んだから、何か聖女化されているけれども、あれが生きてたら、ね、それこそ暴力で権力を奪取したら、そのあと何をしでかしたか分からんみたいなね。もう、それこそレーニン、スターリンじゃないけれども、それこそ〓粛清勢力の、大量学生でも〓やらかしてたかもしらんし。
氷川 うん。
男1 いや、もっと言っちゃえば、みずほだってね、あんな平和憲法とか言ってるけど、権力握ったら何しでかすか分からんわけで、そんな違いがあるんだろうかっていうね。
氷川 うーん、そこは、だから、革命のあとの体制をどのように構成、構想しておくかちゅう問題かなと僕は思うんですよね。ローザの場合は、愚直なマルクス主義者という面がすごくある一方、親交レベルまで労働者を信頼していた。だから、そこで彼女はアナキリズム的になって権力を維持できなかったんやないかなちゅう思いは、僕はあるんですよね。
男1 はぁはぁ。まぁ、もっと言っちゃえば、その彼女がやられていた敗因もそこにある感じ?
氷川 うーん、敗因は、ちょっと僕は、うーん、左派がその前の前段階で、すごく実は細っていたっていうところが敗因かなと思うんですが、ここは左翼というものの、とっても難しい問題があるんやないかなという。人間は、トルツキーに言わせたら、「人間は保守性ゆえに革命をする」という言葉を残しとって。人間ちゅうのは、やっぱり、うまく行ってるときは当然、誰でも保守的になるし、新たな世界いうても、もう、しっちゃかめっちゃかで、くだくだで、人がぼろぼろ死にまくってるだとかそんな状態でない限りでは、今ある生活ちゅうのは愛するものですよね。だから、左翼ちゅうのは基本的に少数派にならざるを得ない宿命があるから、あまり言うたら苦しくなるんですけれども。彼女が負けたのは、いや、それでも新たな世界可能なんだというのを、彼女というよりドイツですね、それをどんだけ内包していたか、準備していたか、そういったことかなと思います。その辺の話、また後半でふれたいなと思います。
男1 はい。その左翼が少数化していって厳しい状況にあるというのを、まさに力技で、ねじ伏せたのがレーニンということですね。
氷川  レーニンの場合は、その絶望が深かったかなと思うんです、ロシア社会の。自由主義者が力をあったら、多分、レーニンは革命できなかったし、彼は、もっと平和革命のほうに押しやられていた。そして、少数派のうちにレーニンは、革命が無しで、彼自身は1917年の何月や、あれ、8月ぐらいの段階で、「われわれ老人はロシアの革命を見ることなく死ぬであろう」と。多分、これは『帝国主義論』っていう本の中で書いてたと、末尾かな、何かで書いてたと思うんですが。ところが、ロシアは、多分、レーニンが思った以上に絶望が深くて、ツァーは吹っ飛ばしたけれど、次を担うはずやったブルジョアジー、自由主義者がとても弱かったと。それが彼の幸せなところであり、同時に、ロシアにとって不幸なことやったんやないかなと思います。
男1 ああ、なるほど。そういった歴史的な面も含めて、いろいろ質問があれば後半、質疑応答をやっていきたいと思いますんで、何でも答えていただけますよね。

氷川 はい、答えられる範囲ではですね。
男1 何でも、ということなんで、何でも質問していただきたいと。じゃあ、10分ぐらい休憩しますか。
氷川 はい、ちょっと休みます。
男1 はい、10分間休憩に入りまーす。
(拍手)

(録音終了 66分間)