2015.02.28 氷川渉講演会 後半 文字お越し


https://youtu.be/xxXPwgbEGi4


     
  次は、日韓ワールドカップのときのネットでのいろんなことを覚えてはる人もおるでしょう。それから、決定的なんが拉致問題。これがものすごく日本社会に対して衝撃を与えたということで、それまで拉致はないなどと言っていた社会民主党という団体があります。さっき僕をドヤした人のコウテイの生徒ですね。あのときで忘れられない、土井たか子の涙。顔面蒼白(そうはく)でしたね。半分ざまあ見ろ思ってました、僕は。悪いけど。これが日本の左派に壊滅的な打撃を与えたと思ってます。
 その前、とても残念なのは、日本共産党が総連とか北朝鮮とかとよりを戻そうとして、フワクンがいろいろうごめいていたせいで、日共でさえ打撃を受けたと。80年代の日共の態度やったら、ここまで打撃を受けへんかったやろなと思うんですが、これはちょっと左的な話ですね。
 それから、かつては前面に出してなかった反日を盧武鉉のころからどんどん表立たせてきて、日本人はだんだん韓国をそれちゃうんちゃうかっていう感情がどんどん盛り上がってきたかなと思います。かつては2ちゃんねるとかそういったところ、今はあらゆるネットメディアで、韓国への疑問や嫌悪感がどんどん表出されてる状況であるというふうに捉えています。

 
 
    そういったものは当然リアル社会にもじわじわと出てきます。

 2005年に『マンガ嫌韓流』、これ、結構話題になりましたけど、売れてたかっていうたら、そんな売れてたっていう印象はないですね。



 


 
   
ところが、2013年、『悪韓論』、室谷さんの本ですね。これが爆発的に200万部売れました。いわゆる嫌韓本。でも、嫌韓本っていうのは決めつけやと僕は思ってるんですよね。なんでそれがあったかっていうたら、やっぱりビジネスマンのそういった臨界点がある程度を超えて、50歳、60歳の本を……。これが『悪韓論』、こっちが『呆韓論』。こっちは読みました。こっちは読んでないです。すいません。そういったことで、たぶんビジネスマンのそういった臨界点が何か突破したんやと僕は思ってます。

 この本は、そういった風潮に対してリベラルサヨクという、僕は奇妙なキメラ。だいたい、リベラルと左翼って別物じゃないですか、本来は。日本共産党がどちらかというと内輪に書いてるような理論の本では、リベラル批判すごくしてるんですよ。あまり知られてないけど。日共っていうのは、そういう意味ではすごく筋の通った偉い政党だなと思うところもあります。
 それはともかく、室谷さんの本がすごく売れたということで、どんなひどい差別本なんやろうと思って、気になったんで読みました。確かに若干悪意はあるけど、結論から言うと、僕の体験からして、あるいは周りの人の体験からして、至極ごもっともだなと、そのとおりだなと思いました。ということで、『悪韓論』の簡単な解説。読んではる人はもう要らんことかもしれませんが。
 ポイントで言うと、韓国における儒教は、徹底的に支配層、両班のためのイデオロギーで、文弱な両班をご主人さまとして奉り、その不当理不尽な命令にどこまでも従うことを強要するようなイデオロギー。本来の儒教は違いますよ。僕は、孔子さまというのは偉大な兄貴や思ってますんで、ものすごく水平的なんですが、なぜかそういったものになってしまってるという、大変孔子さまに申し訳ないと思うんですが、そういうものになってると。要は、韓国において儒教というものは文弱支配層の暴力装置の役割を担っていたということであります。
 先ほどの話にもちょっと関わるんですが、君子不器。要は、君子っていうものは世の中全般を見なきゃいけない。だから、一つのことに特殊に能力が発展させてはいけない。これはすごく分かります。王様が物作りうまかったらどうやねんっていう話ですね。世の中全体見通せないやないかと。まったくこれは孔子さまの言うとおり。でも、それが歪曲(わいきょく)されて、物作りを蔑視(べっし)するような文化にどうもなっているということ。「両班はおぼれても犬かきはしない」というようなことわざがあるそうです。でも、こんな精神じゃ物作りのスペシャリストというのは育つはずがないです。日本と比較にならない学歴社会、格差社会、差別社会。しかも、学歴でもトップに上り詰めてもさっきのような話ということです。

 だんだんうんざりしてきたんですが、後の方はやめましょうか。一番最後だけ。汚職大国、そして暴力大国であるということで、さらにこんなことを言われました。日本は徴兵制がないから男は駄目。日本の左の人が聞いたら目をむいて起こりそうですが、私は言われました。要は何かっていったら、日本の男の子がそれをやったら絶対親にしばかれるようなことを平気でするような文化になっちゃっています。それは合うはずないですわ。いろんなこと考えて、価値観が全然違いますから。だからと言って差別が許されるってもんじゃないですよ。

室谷克実













儒教

孔子

文弱

両班


   
 さらにもう一つええなと思った本を紹介します。『日韓の文化対立は宿命である』、金容雲さんという人が書いて、日韓の価値観の相違を知るためで、日本と韓国の歴史から解き明かして書いておられます。この人は本来人類学者さんです。天災の多い日本人は「水に流す」と。死への諦め、あるいは、死ぬことへの美化。これは日本人やったら、もののふの心とか、そういうのをイメージしたら分かりやすいですね。逆に中国に強いせいっていうのもあるんかもしれないですが、韓国の人は生への執着が強くて、死を美化しない。それで「恨」の概念が生まれると。育まれるっていうか、付いちゃうと。
 その「恨」って何かっていえば、与えられた状況を拒否し、かといって現実を克服・順応できず、嘆く。運を待つしかない」。要は、主体というもので動いて、その結果を、嫌いな言葉ですけど、自己責任的な概念ではないということかなと思います。これも、今の日本人の態度。日本人って、うまくいかんかったら自殺しちゃうじゃないですか、極端な話。そういったものとは全然違う文化にあるということですね。
 あとは、「天孫降臨」で天皇家の話ありますよね、『古事記』、『日本書紀』から。韓国では、すべての家が天皇家的に天と連なっているものとするということで、家っていうものをすごく大事にして、両班であったり、上昇気流に乗りたがるということで、事大主義につながっていくと。日本は、天皇さんは天皇さん、お武家さんはお武家さん、わしら庶民は庶民という発想が結構残ってるなと今日的にも思います。
 ということで、最後の方、論談文化。間違っていても自己主張を押し通そうとするということで、先ほどの話にもつながってきます。新聞でさえ、それちゃうやろというのは、特に中央日報というところ、かなりひどりなと個人的には思ってます。面白いネタがよく転がってるんで、中央日報を読んであげてください。そういった意味で、文化対立は宿命的やってかなり冷静的に見てる韓国の方、学者さんもおられるなと思います。
 じゃあどうしたらいいのということに当然なりますよね。時代はグローバリズムで、世界標準的なルールっていうものが、好きではないけど、仕方ないって言ったらまた日本人的ですけど、流れています。それに取りあえず合わせていくのがお互いのルールとしては仕方がないっていうか、いいんだろうと。そういったものは、日本は20年前からかなりそれに合わせるために必死こいてきて、韓国はそれを先取りしてたような言い方されてますが、僕の目から見たら、たぶん韓国、大幅に譲歩せんとあかんねやろうなという気はします。
 それから、そうは言っても、韓国っていうのはあれはあれで経営レベルでは評判いいんですよ。ものすごく仕事早いし、判断が早いし、トップレベルのビジネスとしてはやりやすい、付き合いやすい相手みたいです。でも、下の方はたまったもんじゃないなっていうところは正直あります。どうするかっていうたら、人的交流なそういったレベルやったら、お互いの差異を認識して、丁寧に擦り合わせていくしかないかなとは思うんですが、たぶんすごく難しい。文化摩擦ですから、すごく難しいと思います。

 ちょっと雑談的になるんですが、1990年代、まだ日本と韓国のビジネスがそんな盛んやなかったころは、お互いに無知故かなとも思うんですが、嫌韓なんていう言葉はなかったですね。日本国内でも在日の人たちは、それはそれなりに自分たちの居場所を見つけて一生懸命生きていて、そういった人たちに対する好意的な目はかなりあったし、そんな点は今も普通の日本人はあるんじゃないかなとは信じてますけれど、そういうもんでした。
 あと、個人的な意見になるんですが、身の回り、韓国から来た方が何人もおられます。昔気質の日本人やなと思いますね。ちょっと言い方きつかったり、たまにはちょっと暴力的かなって、あんまり具体的には言いませんが。でも、人情に厚いし、義理は通すし、上は立てるし、そういったところは昔の日本人っぽい。だから、まったく違うから付き合えんかっていったら、そんなことはまったくないと思います。まだ世界のいろんなところのビジネスかかわってる中では、韓国の人はまだ分かりやすいところは多いかなと個人的には思います。

 金容雲



 
 ちょっと韓国話から、在特会への違和感と。

 実は誘われました。なんでかなと思ったんですが、以前、今、手を挙げた人とかと一緒に会って、夜3時ごろまで酒飲んでましたね。チャンネル桜で、僕、なぜか左側の意見代表ということで呼ばれて、出たら、桜井さんがおられたんですよね。結構話したっていうか、聞いたっていうか、会ったんですけど、すごい勉強家です、彼は。並大抵の専門家じゃたぶん太刀打ちできません、あの人は。自頭がすごくいいです。あと、話すの大好きで、魅力的な人ですわ、一言で言うて。

安田浩一さんも、そういったところは『ネットと愛国』という本で正当に評価されてるかなと、そういった面はね。悪い本ではないと思います。読む価値はあると思います。

 次ですが、彼らがよく在日特権って言いますよね。最初の初期の活動ではよく言ってたんですけれど、通名や特別永住権、各種減税措置。三重県の件が、さっきちょっと雑談しとったんですが、有名。これって特権なんかなとちょっと思うんですよね。それは何かっていったら、同和利権もそうですけれども、特権っていったら、在日全体、あるいは被差別当該全体に対して、他の日本国民や外国人に比べてっていうか、日本人に比べてですね、僕の場合は。特別に優遇されていないと、特権っていうのはちょっと違うような気がするんですね。ここはすごく判断分かれるところです。

 でも、在日の人っていうのは、いろんな話あるけれども、要は、日韓併合の後に、向こうでの生活っていうか、司法主義の運動として、遅れた韓国から進んだ日本帝国主義へと左翼的なことを言っています。日本が経済的に進んだところに移民してきた人が結局残っとるわけですよね、その子孫が。当時は大日本帝国でした。ならば、他の国でやってることとかを考えたら、すごい怒る人おるかもしれないけれども、僕は一応左翼思想の中でいくつか承認すべきやと思ってるんだけれども、国家というものは有機体説ではなくて、機能説というのを取るべきやと思うとるんですよ、現代はね。その立場から立てば、通名とか、特別永住権とか、そういったものはあってしかるべきかなと個人的には実は思っています。そういったところで、彼らの在日特権というのはどうなんかなと思いますね。

 次は、朝鮮学校への抗議の仕方がすごく違和感ありました。いいんですよ。公園占拠してたのは事実やし、それに対してそれはあかんのやなかいということ自身はいいんですよ。ただし、ああいったことで子どもを脅かすようなことをやってたら、さっきの話で出てきた部落解放同盟のかつての糾弾と何が違うねんと思いますね。弱い立場にある者を脅しとるだけやないかと、僕は正直、あれは嫌悪感ありましたね。言うてる内容じゃなくて、様式に対して。

 もう一つは、在日特権から離れますが、彼らがよく依拠して韓国や北朝鮮の異常さを糾弾する。それはそれでいいと思うんですよ。いいんだけれども、それを韓国や北朝鮮のおかしさを言うんやったら、北朝鮮はちょっと行けないにしても、韓国については行けるんだから、韓国で抗議したらええやんと僕は単純に思うんですよ。なんで在日に矛先向けんの。確かに日本も、変な法律って言うたら悪いけれど、韓国がおかしいからって韓国大使館前でデモやとか集会できないんですよね。それがなんでかっていう問題はあるんですけれども、僕は、韓国・北朝鮮の異常さを糾弾するために在日に矛先が向かうのはいわゆる「宛先違い」という、郵便論でしたっけ。若いころはやった思想の言葉に則して言ったら、宛先違いやなということをすごく強く感じます。


 在特会

桜井誠


チャンネル桜

安田浩一『ネットと愛国』


在日特権


特別永住権

三重県の在日の減税

有機体説

機能説

朝鮮学校への襲撃事件

 
 次、ぶつかり合うのはあるんですけれども、「どっちもどっち論」がよく問題になるんですが、それもちょっと違うなと思うんだけれども、反レイシズム側にちょっと批判したいなと思うのは、在特会ははっきり言って、僕は、裁判でも出たんですけど、犯罪者やと思ってます。ですが、犯罪者には何をしてもいいのか。何をしてもええんやったら、警察なくして、リンチして殺してまえやと思うんです。やっちゃいけないですよね。反レイシズム側はそれを批判する側やから、警察的な役割を求められると僕は思ってます。難しいことです。ちょっと比喩(ひゆ)ですしね。その意味では、在特会で反レイシズム側は対等ではないし、もし反レイシズム側が警察に例えられるべきとしたら、彼らは高い倫理性を持たなければ僕はいけないと思います。それが運動側の享受やし、運動する者の誇りやと思ってます。誇りやとか享受っていうの自身が差別やといったら、後で触れる話ですけれど、そうなんですけどね。
 昔から反差別に関心を持ってる個人的つながりのある人は、しばき隊に対して批判的な人が結構多いです。うわあっと言ってやり込める。中には暴力があって、相手の顔面を砕くと。そういうことがあると、効果の前に萎縮して、批判的な言辞はなかなか彼らに向かわなかったから、僕みたいなある種壊れてる人が批判したりしとったんですけどね。そういったことを言った僕みたいな人は、結構批判されるんですよね。


   話が混線して申し訳ないです。反差別を言う人は別の差別に無頓着な人、残念ながら多いです。
有田芳生さんの弟さん。僕、ここで糾弾しますが、あなた、気持ちは分かるけれど、人さまをゴキブリ呼ばわりしたらあきませんで、それは。あと、低学歴とかね。 
有田芳生
WIKIPEDIA

有田和生
WIKIPEDIA

差別反対でありながら「ゴキブリ」などと連呼、野間タソやきっこおじさんを擁護する有田和生さんとのやりとり
http://togetter.com/li/684322


反レイシズム界隈の超VIPが「多分こいつら落ちこぼれの低学歴でしょう」発言。それに対して人々が批判。
http://togetter.com/li/778779

反レイシズム界隈の超VIP「多分こいつら落ちこぼれの低学歴でしょう」発言 2
http://togetter.com/li/779653 
企画幹事
(客席の一人に、有田和生氏の暴言を批判していた方がいたので紹介。でもその客は遠慮)  
 


照れ屋さんだから(笑)


ゴキブリってすごいじゃないですか。ゴキブリ殺しの薬、ちょっと関わりがあるんですけど、ゴキブリ1匹見たら30匹おると思えと。ゴキブリの生命力よう言いますよね。

ネトウヨ1人おったら30人おると思っていいんですが、30人いうたらすごいですよね、ネットの世界だけでネトウヨさんが。その30倍おるいうたら、要は大衆性獲得してるということやないですか。ネトウヨを褒めてるんかなという皮肉もちょっと思ったりします。などということを考える人は、『差別感情の哲学』っていう本がいいかなと。

『差別感情の哲学』


   
 あと、個別に見て、一人一人を見よって言いますよね。

 でも、日本じゃ考えられないけど、韓国じゃよくある話っていうのはやっぱりあるんですよ、さっき言うたように。

それは、個別に見て、物事をそこでとどめるっていうたら哲学の否定ですわ。プラトンという人は、美少年を見て燃え狂って、この美少年、あの美少年、その美少年って言うて、あっていうふうに喜んでたんですよね。これが哲学の起こりです。これはプラトンの『饗宴』の話ですけれど、少年愛を貫いたプラトンを否定したいんかと。ボーイズラブ大好きな人どうしたらええねんと、そんな世界ですよ。というわけで、個別で見ろという疑問がある。

 中国ビジネスで、日本の文化と違うという話ですが、この話も聞いたというので、わいろ表が仕事する前に、20年前は回ってたそうです。わいろがなければ何も動かない中国。面白い話があって、その話を四トロ同窓会二次会に書いたら、わいろを出す日本が悪い。どうせえって言うねん。日本と外国は違うものであって、当たり前のことなんですね。それを、個々人とか、各企業とかっていうレベルで把握しろってこと自身がたぶんとんでもないペテンやと思います。

 プラトン

『饗宴』





四トロ

     
 
 こっからちょっと別の話。
 
外国もめてますね、フランス。これ見てください。アラーの神を絵にすること自身が冒涜(ぼうとく)やと。しかも、そのアラーの神とされる人物にこんなことさせてるんですよ。これはもう、日本人がやったら当然差別、糾弾されて当たり前やと思います。ところが、フランスでは表現の自由として、「I'm Charlie(アイム・シャルリー)」ってなぜか英語で書いてたり。それはいいんですけど、表現の自由を守れ言うて、こういう絵を擁護しなきゃいけないというんですよね。他山の石とはしたいなと。

 フランス側にも言い分がるんです。何かって言ったら、あの辺の国家っていうのを、ウェストファリア条約、1648年が近代国家の起こりとされてますが、世俗国家っていうのはその辺からできてきたんですよね。世俗国家って何かっていったら、権力は権威・宗教と結び付いていたのを破壊したということなんですよね。権力っていうものを破壊した一つ、フランス大革命とされてますが、最近は歴史修正主義という言葉があるんですが、歴史修正主義によってフランス革命の実像っていうのはどんどん暴露されていって、向こうでは、歴史修正主義っていったら否定の言葉では必ずしもないんですよ。全然理性的じゃないんですよね。理性の神とか言うてるんですが、フランス革命っていうのは全然理性的じゃないんです。強敵であればあるほどいい敵なところがあって、だからロビスピエールとかああいった人たちが出てこれたんかなと思うんですけれども。
 歴史うんちくはともかく、民衆は権力・権威に対して、どうもそういった時代の経験もあって、失礼であればよいほどよいと。それには政権がもじられてはいけないということで、こんな絵がOKというふうに思うんですよね。でも、それはあくまでキリスト教の世界のドンパチ。具体的には、カトリックとプロテスタントのドンパチ、権力の奪い合い、それからダッテン闘争、そういったものの果て。その中にはイスラム教はいませんでした。
 ですけれど、彼らはその宗教の権威を破壊して国をつくった、世俗国家をつくったっていう誇りがあるんですよね。だから、イスラム教といえども宗教なんです。そんなものや当然揶揄(やゆ)されても、こんな絵描かれてもええわというふうに、どうも本気で考えてるっぽいんですよね。日本人ではもう、こんな絵載せたら、例えば『日刊現代』が載せたと考えてみましょう。『日刊現代』、しばかれますよね。ところが、向こうじゃ許されると。それは差別ではない。差別として批判されるものの対象の外にあるというところです。
 でも、研修なんかでもよう言われる。差別かどうかっていうのは、表現された側の主観によるものだというふうに習ってます。となると、僕は、これはやっぱりそうは言ってもムスリム差別そのものだろうとは思います。すごく難しい問題です。

 ちょっとフランスの嫌な話、ネットで拾うたんですけれども、差別ということは、向こうでは法的な犯罪という事情があるので、基本的に犯罪者にはされたくないので差別とは認めない文化があるということです。ここでこんなことで、向こうの人ね。私もフランスでアジア人女性として、日本ですからね、差別的もしくは偏見に満ちた嫌なことを言われたことが何回もあるけど、異議申し立てをすると必ず相手は、ただのジョークだったのに君はユーモアがないって、こちらが悪いことにされてしまう。これがフランスのメイなんとかさんとかが大好きな、ヨーロッパの差別のない社会の実相です。
 それで、ラシズムという言葉を出してしまうと、相手の頭に血が上るそうです。それは出さずに不快である旨を伝えても、向こうから、私がラシストだとでもと言って詰め寄ってくる。こちらのせいにされる。これが差別・抑圧のない西洋の実態です。ないとは言いませんよ。日本より少ないと言われる。
 フランスの話、落としどころが要るかなと思うんですよ。先ほどの世俗国家というのと、イスラム教というものの宗教の中の教理から来ている。原理と原理がぶつかり合えば、人間は殺し合いをするしかないです。これはプロテスタントとカトリックの歴史が証明しています。
 一方、フランスは理性を掲げた偉大な革命をやっとると。いかにうそや欺瞞(ぎまん)が満ちても。そういった苦難の歴史がフランスにはフランスであって、宗教と政治、権威と権力の分離の歴史があると。フランス革命のインパクトというのはヨーロッパ全体に広がっていて、それぞれの宗教というものは、そういったわけで脱構築されて、権力と分けられていったということで、宗教的なものっていうのは各人の良心の中にある。プロテスタントの考えですわな、結局勝利したのは。カトリックは強いですけどね、フランスでは。でも、この発想は、基本的にはプロテスタントです。それを公的分野に押し付けてはいけないということですね。
 ここで難しい問題が出ます。先ほどのイスラム教、ヒジャブ、宗教的な装いです。これを学校に持ち込んではいけないとされて、十数年前、ものすごく物議を醸しとるんですよね。ここにものすごいフランスの抱えている困難があると僕は思ってます。ヒジャブを持ち込まないのはフランスの原理原則。ところが、イスラム教はヒジャブをかぶるのが原理原則。そしたら、イスラム教を信じる女性たちはどうふるまうべきか。これは簡単には答え出ない。すごい難しい対立問題です。そういったことで、僕は、差別というものを本気で考えていったら、どんどん難しい泥沼に陥っていくなというのはこういったことからも分かるかなと。
 フランス流の知恵って書いてますが、これもすごい怒る人おるらしいですけど、ユダヤ人には何も与えない。だが、フランス公民にはすべてを。要は、ユダヤ人という差別と抑圧の歴史がすごくされた人たちであっても、何も与えない。宣言しとるんです。でも、フランス公民である限りはすべてを与えるということですね。


 シャルリー・エブド襲撃事件
→WIKIPEDIA


"Je suis Charlie"
(フランス語発音: [ʒə sɥi ʃaʁ.li]ジュスィ・シャルリー)
(訳:私はシャルリー)
→WIKIPEDIA


ヴェストファーレン条約
ラテン語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。
→WIKIPEDIA

『日刊現代』


ヒジャブ


まとめに対するレインボーアイコンの方々の感想①②③+カウンター界隈の感想+おまけ
http://togetter.com/li/629645

https://twitter.com/May_Roma/status/434016002117226496
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大手書店でヘイトスピーチやヘイトクライムを扇動する本が堂々と売られ、大手書店はフェアまでやる日本は後進国。そんな先進国はない。さらに、書店前でデモや不買運動が起きないことが問題。書店も大手企業なのに訴訟リスクを考慮していないのが意味不明。

2:27 - 2014年2月14日
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https://twitter.com/May_Roma/status/434010198605574144
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イギリスもイタリアもフランスも、大手本屋には、「イスラムはこんなにヤバイ」「ユダヤ人の陰謀」「黒人は故郷に帰れ」「ゲイは病気」「女は家にいろ」なんて本は並んでないぞ…フランスなんてその代わりに日本や中国や中東の古典文学や、日本の漫画がならんでんだそ。

2:04 - 2014年2月14日
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    こっから提案になるんですが、答えのない問題です、差別問題は。だから、なるべくということしか言えないです。まず人権教育はやりましょうや。でも、受けた人権教育、今から振り返ってもとんでもないなと思います。最初に言うべきことは、あらゆる人に人権、人間の尊厳がある。ニーチェ的な皮肉言いますと、権利は特権だ。ところが、あらゆる人間に対する特権としての人権とは何かというすごい難しい問題があるんですけど、僕は人間の尊厳って言うたり、人間尊重と言った方が僕は好き好きなんですけれども、そういうものを含めて、人権という言葉に意味を込めて、それをまず子どものうちにお互いがお互いを尊重することをしっかり教えないといけないだろうと思います。人間なんて、差があって、劣る者、ええ者もおる。でも、そういったものも含めて全部神様の前へ。神っていう言葉を出しちゃいかんか。そうであっても、みんな飯食う権利はあるんだよとか、みんな生きていく価値はあるんだよとか、うそでもいいから教え込まなきゃいけないと思います。
 ところが、僕が受けた人権教育では、いきなり部落問題と結び付いたせいで、今からまた印象なんですが、子どもなんて論理やなくて印象で考えるもんですから、弱者にのみ人権があるような印象を受けさせられたんですよね。しかも、さっきも言ったけど、差別的な落書きや、問題があると学校の授業を潰して、おまえが悪い、おまえが悪いというような糾弾闘争を学校でやるんですよ。これじゃ人権教育嫌いになって当たり前やと、今の年になっても思いますわ。


 これ、大阪の人にしか分からんかな。クラスでは、在日や被差別当該を含め、皆、『にんげん』が嫌いだった。『にんげん』っていう教科書があったんですよ。ひろさちや風の絵で、暗い絵で。大阪の人やったら知ってはる人もおるでしょ。ああいったものがみんな嫌いでした。何かって言ったら、たぶん順序が悪いんですわ。あらゆる人間に人権があるって、繰り返しですね。あるんだけれども、立場の弱い人の人権っていうのは潰されやすいという現実を、その次に教えるべきかなと思います。弱者と言うけど、誰でも弱者になり得るわけですよね。例えば、今そこをぴゅって飛び出して、車にひかれてぺったんこになって、死んだらまだましかな。すごい障害を負うこともあるじゃないですか。会社いきなり潰れることも今の時代あるじゃないですか。弱者になんて誰でもなると。人権をお互いに守るということは、自分を守ることなんですよね。僕はそう思います。だから、人権大事やと。
 もう一つは、きょうは北朝鮮問題かかわってる人おるかな。人権は、僕は国権を超えると思う。かつては、国家によって人権は保障され付与されるって言って、確かに現実の暴力の関係を考えたらそれはそうなんです。でも、人権が保障されるものというものは、やっぱり国権を超えていかんとどうしようもない時代になったんじゃないかなと思いますね。例えば北朝鮮のこともそうですし、ウイグルの問題なんかでもそうですよね。だから、ワールドワイドに人権っていうものは捉えんとあかんのちゃうかなということですね。特に共産圏っていうのは、あいつら、人類種の悪いところを寄せ集めたようなところがあって、周辺諸国の人権問題について行動することを内政干渉と言って批判してきた左翼が実に多かったです。北朝鮮問題語ることが差別やって言うし、今やったらチベット・ウイグルで頑張ってる、どう考えても僕の目から見たら左翼なんですが、三浦小太郎先生とかも、右翼の差別排外主義とか言われたり。おまえの方がよっぽど差別排外主義やないかと、ほんま思うわけですよ。そういう状況で、残念ですが左がまだまだあります。
 
 『にんげん』
→WIKIPEDIA
 
   次にアファーマティブアクション。

 これは必要やと思います。さっき言うた土間敷きの被差別部落の人たち。生活ようするには、自分らの資金ではどうしようもないです。そしたら、公的資金注入せなあかんと思います。だけど、それが利権になったのはなんでかっていうたら、ちゃんと見直しをしてなかった、精査してなかったからやろうと。その辺の利権化が反差別運動を腐らせてきた歴史が、日本に限らず、世界にはあると。それをもって、京都の一宮さんとか、ああいった人たち、『同和利権』という本を出したり、『同和利権の真相』とか、いろいろあるんですが、同和利権ができたっていうのは要は行政の怠慢やと僕は思ってます。
 次ですが、結局日本人の規範としては、これがええんちゃうかなって。「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」という言葉。あるいは、カントの哲学。「自由であれ」、「他人を手段にしてもよいけど、目的自体とせよ」。要は、他人のためになることをするっていうのをお互いに理解し合ったら、あいつはもう駄目だ、あいつは何々だ、あいつはなんじゃとか言うて差別するっていうことはたぶん減っていくだろうと思いますね。

 アファーマティブアクション

   次がすごく大事です。
 思考をやめないで。

 これは自分に言い聞かせてるんですけどね。疲れるんですね、こういう問題考えたら。嫌になる話もいっぱい聞きます。でも思考をやめちゃ駄目です、たぶん。他人を傷つけることになっても駄目です。

 これは何かって言ったら、ハナ・アーレントはナチス問題を考える上で、思考をやめなかったが故にユダヤ人社会から強烈な批判を浴びた。何かって言ったら、ユダヤ人は被害者やって固定したい人たちがおったんですよね、圧倒的な。それの裏返しとして、ナチスは怪物のように悪いものというふうに決めつけたかったんですよ、ユダヤ人社会。気持ちは分かります。だけど、アイヒマンという人は、怪物でもなければ、化け物でもなければ、小心なただの一市民に過ぎなかったことを彼女は証明したんですよね、アイヒマン裁判というもんで。そしたら、それはユダヤ人が持ちたかった物語と全然かみ合わなかったので、ものすごい彼女は批判されて、多くの友達を失ったんですよね。でも、彼女はそれでも思考をやめませんでした。すごく偉い人だと思います。 
 ハナ・アーレント

    それから、平等への強い指向と思考。
 
 端的に言えば、人間って、僕、最近おっさんになって思うんですけど、阪神大震災経験された方もおられるでしょうけど、あのとき救援入って思ったのは、人間っていうのはほんまに困ったときは助け合うもんだな、要は共産主義になっちゃうんだなと思いました。それはマルクス・レーニン主義的な共産主義じゃないですよ。僕、マルクス・レーニン主義は、今はかなり批判的な立場に立っておるんで、違うんですけれども、もっと素朴な共産主義に人間っていうのは生きるんだなと。それを普段でも忘れないことが大事じゃないかな。忘れないということは、人間の思考は、野村克也さんやったら、行動に出るというんで、たぶん行動にも移っていくんでしょうというふうに思います。
 
 
 最後に強烈な言葉。障害者を目の前にして、普通に振る舞えるでしょうか。きょうも天王寺の方から、公園から来たら、目の前から障害の方が来られたら、やっぱり構えてしますんですよね、人間って。でも、それって未知なるものに対する恐れとかと一緒で、普段接していないものがぱっと現れたら、人間ってやっぱりうっとかってなるじゃないですか。でも、そういった態度自身がたぶん差別の根っこにはあるんだろうな。でも、それはたぶんなくせない。僕はようなくさん。もう一つあるのは、体験的には障害者の介護をやってたんですよね。介護って一言で言えば何かって言うたら、下の処理ですね。食べ物食べてるところで申し訳ない。他人の下の処理、男はできるようにはたぶんできてない。すごいストレスですわ。障害者と向き合うっていうのは、そういうところがあるんですよね。だから、僕、介護の仕事やってる人ってすごくえらいし、介護の給料が安いって、個人的には全然信じれないですね。   
 
   
 というわけで、ちょっと紹介します。差別問題を考えるためによいと思う本、今、だあってそちらの方に並べてますが、『差別感情の哲学』は、今言うた障害者の話。それから、恵まれた人っていうのは差別なんか必要ないとか、そんなことを書いてて、素晴らしい本です。本当に難しいのは、困難の中にある人たちがすごく難しいところだと。
 
 
  それから、フランスの学者で、アメリカやフランスの差別問題に関してすごく紹介されていて、異文化共生とか軽く言うけれど、世の中そんなに簡単なもんやおまへんでいうて、あと、アフォーマティブアクションに対するジッソンとかを書いたんがこの『レイシズムの変貌』ですね。








 
 
 それから、アイヒマン裁判の『イェルサレムのアイヒマン』。
 
 







 
 それから、『赤い血』が特にお薦め。読みやすいという点で選んでます。

  
 





 
それから、ハナ・アーレントの『戦争の世紀』。 

 
 
 
 『全体主義の起源』は、宿敵ファシズムと共産主義批判の本ですが、人権問題についても考えさせられるということで、紹介するには濃過ぎるし、ちょっと忘れてるとこもあるんで。
 
  
 









   
次は、ハンナ・アーレントの生涯を追った、『ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』。これは、ハンナ・アーレントの特に後半生がすごくいいです。

 




   
 部落問題に関しては、僕が入門書としてるのはこの本、角岡伸彦さんの『はじめての部落問題』がいいと思いますね。

 
 




 
 それから、部落が明治の御一新前は豊かやったけれど、経済的に没落して、どんな苦しみがあって、その中から人々がどうやって立ち上がったかっていう歴史を感動的に描いたんが、この『近代の奈落』、宮崎学さんの本。

 
 




 
 在特会問題に関しては、僕はええ本やと思うんで紹介したいです。安田浩一さんの『ネットと愛国』。これは、逆に言えば在特会に飛び込んでいく人たちの群像っていうのはすごく興味深いし、彼らも彼らなりの理由があるんだなと思いました。

 




 
   ちょっと差別問題からずれるんですが、『当事者の時代』っていう本があります。これは、日本の新左翼と反差別団体との共倒れの歴史と言った方がいいかな。
 




   
 それから、この漫画、すごくいい漫画です、『聲の形』。これは、「このマンガがすごい!2015年」オトコ編第1位。障害者の女の子と周りの友情の物語って言ったら丸め過ぎなんですが、要は障害者の女の子とか、実際障害者と付き合いあったら分かるんですが、やっぱり違和感あるんですよね。そういった違和感を基で主人公の男の子がいじめてしまって、でも、いじめたことをいがんだ形で糾弾されて、不登校になって、友達がいなくなって、ぼっちになって、そこから回復していこうとする物語なんですが、何がええかって言うて、この話の中に出会ったときからその障害者の女の子と真っすぐに向き合ってる女の子、植野さんっていうのがおって、彼女が、その障害者の耳の聞こえないろうあ者の女の子でもストレートにぶつかるが故に、ばあって張り倒すシーンがすごくいいです。読んでください。ほんまに感動します。
 




  本 の紹介はこんなところで。  
   
 あと5分ぐらいしかないですけれども、差別問題をなくすためにということで、ねたみ、そねみ、ひがみという負の感情と向き合う哲学。哲学っていうのは、この辺向き合ってるのがちょっと弱いかなと。要は、負の側面。向き合うの、ちょっと弱いかなと思います。
 
    それから、貧困が差別をひどくするのは歴史的事実やから、貧困をなくさんとあかんやろうなと。でも、公平・公正な社会を作っても、たぶん負の感情はなくならへん。その辺で残ってくる差別って、これは社会主義論争でやっとった記憶があるんですが、間違ってたらごめんなさい。頭がええとか、体が強いとか、そういったものが資本として、人間個体の資本として残ると、これも差別につながるという話ですが、強い人はいいんで、弱い人は感情的にもさらに負のものを追い込んでしまうということです。
 一つの解決策ですが、優れていることに伴う享楽。優れている人はやっぱり収入も多いし、いろいろ味わう能力もあるし、享楽が多い。これは思います。それをできたら周りの人に分配するようなことをちゃんとせなあかんのちゃうかなと。たぶん、この辺のことをマルクス・エンゲルスはすごく単純化してたっていうたら言い方悪いけれど、またそういった話詳しい人もおられるんで、懇親会でやりたいと思いますが、そういったことを、ものすごい天災であるが故に、スコーンと説明しなかったような気がするんですよね。
 それから、誇りや尊厳とか、さっきから何遍か出てるこういった言葉も、実は他者との比較において成り立ってたりする場合があるんで、この辺もすごく難しい問題やけど、注意深く使わなければ他人を傷つけることになると思います。
 それから、歴史的な文脈ですね。いろんなもんをみんな抱えて生きとるんで、そういったものをどのようにお互い受け入れ合うかっていうのは、すごくすごく難しいです。さっきのフランスにおけるムスリムの問題ですわ。僕が思うんですが、そうは言っても、やっぱり理性っていうものは人類共通のもんやと思うし、いくら抑圧的であるにしても、西洋が先に苦しんでくれたんやと思えばええと思います。あくまで西洋は先行者。だけど聖書にいわく、「先の者は後となり、後の者は先となる」とある。われわれがいつまでも西洋の後におるかっていうたら、決してそんなことは決めつけられないと思います。西洋は、全人類のために殺し合いを先にやってくれたと考えた方がいいんじゃないかな。
 そういった中で生まれた人権とか、民主主義とか、そういった思想というものは、僕は人類普遍で、出典当たろうとしたんですが、探し切れなかったんですが、中国の古典にもそういった人権や民主主義に該当するものがきっちりあって、それはお互いアジア圏で生きていたと。日本の場合は、そういった歴史の中にあったから、結構すんなりっていうか、いがんでるっていうたらいがんでるんですが、それなりに受け入れられていったから、それをさらによりよきものには日本的文脈ですればいいし、中国は中国でそういった文脈ですればいいと思ってます。西洋の人殺しの歴史を利用しない手はない。
 アファーマティブアクションは、先ほど言うたことでいいでしょうね。ということで、ちょっとだけ雑談。左翼や反差別運動が失った歴史は、先ほど言った当事者の時代にあります。要は、もともと左翼っていうのは誤解されてる人もおって残念ですけど、ものすごく愛国的でした。ところが、愛国的で、俺らは革命をやって、世界革命を領導するんだっていう素晴らしい心意気はあったんですけれども、実際のえぐいことは、左翼暴力団として在日の人や被差別部落の人たちを利用してたという歴史があります。
 左翼の愛国主義に鋭い批判を投げかけたんが「華青闘の告発」。70年のことで、これは入国管理に関する闘争。これ、すごい難しいんです。なんでかっていうたら、入国管理されるのは外国人。ところが、日本の法律を決めるのは日本人。そういった狭間ですごい難しい問題を投げかけられて、それをうまく消化できなくて、佐々木さんが言うには、弱者ひょう依が起きた。要は、左翼が被差別の人たちの外国人の言うことに丸のみして、坊主ざんげをした。これで、坊主ざんげして、てめえらだけがごめんなさい言うてたら、日本人、おまえらも謝れよなどという態度を出したんですよね。これで新左翼系のそういった左翼っていうのは、ものすごく駄目になっていったなというところかな。
 もう一つは、下から2つ目かな。左翼思想がもともと持っていた大衆蔑視が、新人類世代的に言うたら、浅田彰さんとかああいった人たちが英雄やったわけやけれども、価値相対主義の中で左翼思想の持ってるごう慢さとか、そういったものがどんどん論理的にも実践的にもばれていったかなと思います。
 最後、そういったこともあって、市民運動的なところに左翼っていうのはどんどん吸収されて、解決されていったけれど、根っこはやっぱり階級闘争やと思うんですよ。そこをまじめに考えて構築しないと、たぶん左翼は復権しない。
 右翼については、もともと左翼と兄弟やったなと。大昔、明治時代の右翼と言われる人たちのことを見たら、左翼を決して馬鹿にしてないんですよね。してません。理想主義は分かる。でも、そういった自由民権っていうのは強い国家があってこそじゃないかということで、頭山満とか、ああいった人たちは国権主義に行ったと。神代の昔の右翼はそういうふうなことですね。となると、左翼のことを左翼以上に本来右翼は勉強しとかなあかんはずかなと思います。
 上から5つ目、西洋への対抗意識は左翼以上に本来強いはずです。ですから、反差別の土壌では左翼以上に活躍すべき。特に東洋の人たちが、あるいは、非西洋の人たちが抑圧されてることに対しては、左翼以上に怒ってしかるべきやと思いますし、実際、戦前はそのようだったようです。
 日本人に対して右翼が説教というか、意見発信したりしてるだけやったら、たぶん左翼と同じような失敗になってしまうかなというのが、ちょっと自戒を込めて言いたいですね。
 あと、右翼っていうのは、左翼以上に西洋を乗り越える思考が本来あったはずやから、
それを忘れたらちょっといけんのやないかなと思います。
 反差別に限らず、今の政治状況でちょっと悲しいことですけれど、対抗言論への無理解。自分らだけで、最初の最初触れましたが、凝り固まってしまってるようなところがあって、そもそも相手の言うてることを理解した上で批判するっていうのができてないんやないかな。それが一つ。象徴的なんがヘイト本に関する言動ですね。韓国を批判してる韓国批判本であるのは確かですが、でも、それをちゃんと読んだ上で批判してるような言説に僕は残念ながら出会ったことはないです。ヘイト本っていうレッテル貼りだけに終始してるんやないかなというふうに思ってます。
 それが単なる言論やったらまだいいんですけど、国会論戦でも同じようなことがあったんですよ。小池晃さんが、首ちょん切られた日本の後藤さんとかのことに関して、安倍ののやってることは妥当だったんかっていう、当然、野党ですから追求しますよね。ところがそのときに、安倍はぶっちゃけた話、ものすごい見当違いなこと言った上で、政府のやったことを批判するな的な答え方をしてて、とても残念だな。ちょっと細かい経緯は忘れた。このレジュメ書いてるときは、怒りながら書いとったんですけれども、そんなことあって、どうも首相クラスっていうか、首相の答弁書を書く人が相手の意見を理解できないっていうのは、日本の官僚の能力がすごく落ちてることやないかなと思います。
 それが国内だけやったらまだしも、たぶん世界中。今度、安倍ちゃんを擁護しちゃいます。安倍さんには多少同情するところがあるんですよね、彼の突き当たってる問題に関して。それはともかく、安倍の言ったことに対して、『ニューヨークタイムズ』が慰安婦問題かなんかでものすごく悪意ある解釈をしてるんですよね。しかも、相手のことを触れないっていうたら、シャルリー問題でもフランスの態度はそういうもんかなということで、世界中で相手の言うことを理解する気もないんか、理解する能力もないんかというような現象が僕の目から見られてます。
 馬鹿の大壁が世界を覆っとる。世界をブロック化しているという感じですね。そう言った意味で、話し合うという理性的な言葉がお互いに通用しないとなれば、当然、次に出てくるのは暴力です。それを防がないといけないけれども、片方だけが負けるっていう、そういったもんもあり得んかなということですね。
 その民族や国家、地域とか、いろんなセクター、そういったものの歴史や背景を踏まえた上で、最良質の他者への接し方を意識せんと駄目。接し方を考えて、相手のことを尊重して、ちゃんと相手の流儀とかを分かった上で対応を取る。それから、それはそれとして認めて、それでもやっぱり嫌なことってあるじゃないですか。嫌なところは嫌や言うたらいいんですよ。それをお互いに認め合うことしかないかなと。
 日本の儒教権では、やっぱりこの「恕」という言葉に象徴されるのかなと。さっきもちょっと論語出したんですが、思いやりですね、一言。これを忘れなければなんとかなるんかなということです。とにかく差別っていうのは、ものすごく深くて、恐ろしい背景があることの表出なので、僕は簡単にはなくならないと思います。でも、なくすための努力はできると思うんですよね。以上で終わります。

  
 
   
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