西岡昌紀氏 講演会 2015.07.05
「言論の自由と差別問題」シリーズ 「マルコポーロ事件から20年」

大阪市 討論BARシチズン
撮影 討論BARシチズンのマスター西岡氏
動画編集 のら猫の手 


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西岡
 皆さん、こんにちは。西岡と申します。きょうは、お招きいただきまして誠にありがとうございました。

自己紹介させていただきますと、私は、今58歳の、者でございます。神奈川県に住んでおりまして、内科の医者でございます。

きょう、お招きいただいたのは、ここにちょっと私の本が、光栄にもご紹介されていますけれども、20年前に『マルコポーロ』廃刊事件という事件があって、その問題が、最近話題となっているヘイトスピーチ規制法という問題を考える上で、ほんとにくすぶってる問題であるというところにご注目いただいたんだと思います。大変光栄だと思っております。

 その内容は、第二次世界大戦中に、ドイツがユダヤ人を差別、迫害したことはもちろん明白なんだけれども、いわれていることがすべて本当なのかということを考えたときに、特に象徴的なアウシュビッツなどのガス室というものが本当にあったのかというところに、実は欧米で長い論争があって。実は、よくそれを聞いてみると、とてもあったとは思えないということを、私が書いた記事です。その記事にはちょっと間違ったところもいろいろ細かいとこあったので、2年後にこの本を出しまして。こちら、基本的には間違ったことはないと今でも思っておりますけれども、そういう事件です。ただ、そのときに言論弾圧のこと、弾圧という言い方は大丈夫なのかもしれませんけど、まさに言論っていう問題があったわけですね。

西岡昌紀
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雑誌『マルコポーロ』廃刊事件
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ヘイトスピーチ規制法

2015年5月22日
民主党の有田芳生議員や社民党の福島瑞穂議員など国会議員7人が、「人種等を理由とする差別の撤廃のための施策の推進に関する法律案」を参議院に提出した。成立しなかった。

発議者
小川敏夫、有田芳生、前川清成、白眞勲、大塚耕平、福島みずほ、糸数慶子
賛成者
相原久美子、足立信也、石上俊雄、礒崎哲史、石橋通宏、江崎孝、江田五月、大野元裕、尾立源幸、小西洋之、斉藤嘉隆、田城郁、徳永エリ、難波奨二、西村まさみ、浜野喜史、藤田幸久、水岡俊一、森本真治、安井美紗子、又市征治、吉田忠智


2015年6月5日
ヘイトスピーチ条例、成立不透明に 大阪市議会委

アウシュビッツ

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(独: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau、波: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)
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ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な絶滅政策 (ホロコースト) および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容された90%がユダヤ人であった。
アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ[1])に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「負の世界遺産」に分類されることがしばしばである[2]。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。
この項では、ビルケナウに限定せず、アウシュヴィッツ全体について述べる。


ガス室
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ガス室(ガスしつ)は毒ガスによって中に入れられたものを殺傷する密閉された部屋。

ジェノサイド
チクロンBを封入した缶 珪藻土にシアン化水素が染み込ませてある
ナチス・ドイツが絶滅収容所で用いたとされる。使用されたのは、主に燻蒸殺虫剤のチクロンBで天井の穴から投げ込まれたとされ、犠牲者が死に絶えるまで、20分ほどだったという。
なお、「チクロンBは殺虫剤に過ぎず、連続的大量殺人は不可能である。ナチスによるユダヤ人殺害にガス室は用いられていない」と主張する者も存在する(ホロコースト否認の項を参照)。


 
   それでちょっと、そのお話しする前に、私がとても好きな映画の冒頭をちょっと5分ほどお見せしたいと思います。『華氏451』という映画です。未来社会で、本を読むことが禁じられるという社会を描いた、SFのような、フランソワ・トリュフォーの映画なんですけれども、ちょっとそれを、まず見てからお話ししたいと思います。

映画『華氏451(Fahrenheit 451)』
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フランソワ・トリュフォーの監督による、1966年のイギリスの長編SF映画である。原作はレイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』で、(本の素材である)紙が燃え始める温度(華氏451度≒摂氏233度)を意味する。


フランソワ・トリュフォー(François Truffaut)
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1932-1984 フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。

 
  (映像)


Fahrenheit 451 (1966)

https://youtu.be/T0bVqgBSZHk

0:58~6:55



 

映画『華氏451(Fahrenheit 451)』

 
 
 これ、私、原作は読んでないんですけど、レイ・ブラッドベリという人の小説で、『華氏451度』っていうのは、紙が燃える温度を意味するんですね。未来社会で、本を読むことが禁止されて、本を持つことも禁止される。単純所持も禁じされるわけなんですね。誰か本を持ってると密告が行われて、あそこの人は本を持ってます、本を読んでますという密告がいくとすると、ファイアーマンとか、こういう人たちが、なんか戯画のようですけど、本を燃やしに行くんです、焚書(ふんしょ)をしに行くわけですね。本なん読んだと、犯罪で、持ってることも犯罪であると、そういう未来社会で。これ、とてもいい映画ですから、皆さん、ぜひ見ていただきたいと思いますけど。この後、主人公がだんだん本に興味を持ち出して、本を読み始めると。それで、職場ももちろん、社会から追われて、森の中に、本を丸暗記してる人々が住んでるとこに行くという、そういうふうになってる話で、とても見ていただきたいんですけれども。 
レイ・ブラッドベリ (Ray Bradbury)
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1920-2012 アメリカ合衆国の小説家(SF作家、幻想文学作家、怪奇小説作家)、詩人。





 
   
 最初に、これちょっとお見せしたのは、もちろんこれは、ひとつのSFというか、カリカチュアといえば、カリカチュアなんですけれども。これに近いことが、皆さん、驚かれるかと思いますけれども、欧米であったんですね。きょうは、7月5日ですけれども、きのうは、7月4日でした。7月4日って何の日かっていうと、皆さんご存じのとおりアメリカの独立記念日なんですけれども。

アメリカの独立記念日の7月4日、今から31年前、1984年7月4日に、アメリカで、ある出版社が放火されたんですね。ここに1冊持ってきましたけれども、Instirute for Historical reviewといいまして、出版社で、欧米で非常に出版が難しい近現代史に関する研究書をたくさん出してきたところです。ここにあるのは、そこの、たくさんある本の1つにすぎなくて、ダッハウ収容所というところに関する、これも薄いですけど、非常に密の濃い出版物なんですけども。
 カリフォルニアに、その出版社があって、古い公文書だとか、新聞だとか、雑誌の記事の貴重な記事とかをたくさん所蔵してたんですけれども。

要するに、私もマルコポーロの記事書くときに、非常にそこから勉強したんですけども。ガス室という話が、いかに怪しげな話か、科学的におかしいか。あるいは、ユダヤ人を迫害したことは事実だけれども、絶滅などという計画があったとは到底考えられない根拠になるような資料をたくさん所蔵していたところで、そういう出版物出してたんですけど。

1980年代初頭から、何度も何度も、はっきりいうと、シオニスト過激派の団体から脅迫を受けていて、そこの出版社職員などが暴力的に襲撃されたり、銃撃を受けたこともあると聞いてますし、それから、放火も何度も。既にあったんですけれども、31年前の7月4日に、ついに大規模な放火が行われて、そこに大量の、貴重な資料が灰と化したと。まさに、今の映画みたいなことを、民主主義を自称するアメリカで起きたんですね。

 だけど、そういうことを報道もされないから、日本人で、31年前の7月4日に、そんな焚焼の事件があったなんてことを知ってる人は、ほとんど皆無ですね。そういうことが背景にあって、私が、なぜ、じゃあガス室の話がいかに怪しげであるかということを知ったかということは、ちょっとまた後でお話ししますけれども。私は、1989年ごろに、そういう問題が欧米で議論されてることを知って。当初は信じられなかったんですけど、だんだんいろんなことを知ってくうちに、民主主義を自称するアメリカ、ヨーロッパで、いかに情報が管理されてるかということを知るに至りました。 
 The Institute for Historical Review (略称IHR)
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 それで、そうしてるうちに、1994年なんですけれども、ここにちょっと、それ、関係ある本があるんですけれども、亡くなった筑紫哲也さんの『このくにの行方』って本なんですけれども。これは、皆さん、ご記憶だと思います。『NEWS23』という番組、筑紫哲也がテレビコラムみたいなことをやってて、「多事争論」といって、毎日いろんなこと言ってたんですけれども。その中で、この本を持ってきたの、ちょっと理由があるんですけど。1994年に、筑紫哲也さんが、まさに、このホロコーストの議論のことを、ちょっと一度取り上げたんですね。1994年7月13日に、筑紫哲也さんが、あることを発言した。その1994年に、私が、『マルコポーロ』の記事を書くことになった年ですけれども。1994年という年に、どういうことがメディアで語られたかということを知っていただくために、ちょっと筑紫さんの言ったことを抜粋で読むので聞いてみてください。

 中国と台湾と香港の人たちの共同製作で、南京大虐殺の映画を作ることが決まったそうです。中国では、別の監督が同じテーマで映画を作ることを考えているようです。もちろんこれは、スピルバーグの『シンドラーのリスト』が大ヒットしたことに触発されての動きだと思われます。この映画の製作意図は、このままいけば真相が埋もれてしまう。一刻も早く証拠を残しておく必要があるということでしょう。これは、明らかに永野法務大臣の発言、南京大虐殺はなかったのではないかを意識したもので、それに対する反撃の意味もあると思われます。この虐殺をめぐる議論の1つに、殺された人が千の単位なのか、万の単位か、あるいは、十万の単位なのかということがあります。日本では、最近松本で起きたサリン中毒事件で、7人の方が亡くなってあれだけ大きなショックを与えているわけですから、一千であろうと、万であろうと、殺された人々が映像で再現されたときのインパクトは、極めて大事だろうと思います。大事なことは、われわれにもシンドラーのような物語がないかといえば、前にも触れた杉原千畝のリストがあります。それぞれの国に物語があるのですが、国際社会では、説得力に自分を語る努力をしなければ負けです、という、ここの、これ資料として、今、読んだんですけれども。1994年に、非常に、日本におけるいろいろな歴史を、特に歴史をめぐる議論なんかについて、規制を加えなきゃいけないんじゃないかということが、語られるようになった。

 それには、さらにいうと国際的な背景があって、1994年に、私は、とても非常に印象残ってるんですけれども。ドイツで、ホロコーストに関する議論に対する、ついて、ガス室を疑うようなことをいうと禁錮刑になるというふうに法改正がされて、とても規制が厳しくなったんですね、それ以前から規制はあったんですけれども。それを、私は日本の新聞で読んだんですけれども、これは怖いと思ったのは、日本のマスコミが、そういうことをまったく批判しないで、さすがはドイツだ、立派だというふうな感じで、言論規制、日本もするべきじゃないかという方向に、どんどんメディアの風潮がなっていったんですね。

 もう1つ、1994年6月17日の「多事争論」で、筑紫哲也さん、こう言ってるんです。
これ、僕、テレビで見ました。
ドイツの国内に「アウシュビッツのうそ」と呼ばれている主張があるそうです。極右勢力が繰り返し言ってるもので、「ユダヤ人の虐殺について、収容所の能力などから考えて、そんなにたくさん殺せるはずがない。そして、虐殺は世界の歴史の中でたくさんあるのだから、ささいなことだ」というものです。

似たような論理をお聞きになった覚えがあるのじゃないでしょうか。
「南京大虐殺は、そんなに人が殺せるはずはない。世界中で同じようなことがあったのに、なぜそれだけを問題にするのか」。
永野法務大臣のでっち上げ発言に通じるものです。

ところが、このアウシュビッツのうそを主張することに対して、ドイツは近く刑法を改正して、この主張をしたものは罰するという、ある意味でギョッとするような法律が成立する見通しです。これに反したものは、最高禁錮3年です。刑法ですから、軽犯罪ではなく、非常に厳しい罰則を科すことにしています。なぜこういうことが起きたかというと、いうまでもなく、極右勢力が非常に台頭していろんなことが起きていることが原因です。ナチスの宣伝で、100回繰り返せばうそも本当になるという有名な言葉がありますが、アウシュビッツのうそを繰り返し続けると、それを半分信ずる人が出てきたりする。そのことを、あえて防ごうというわけです。
言論の自由、あるいは、民主主義の原則からいえばかなり問題のある改正に見えますが、ドイツの与野党、そして、なんと言論界も、これを指示しているそうです。ドイツの世界に対する確固たる勢力を示している点では、日本のケースと比べて、他山の石とでも言えるのではないでしょうか。

 これ、筑紫哲也さんの肉声です。だから、私の意見言う前に、ジャーナリストの肉声をそのままご紹介したんですけども。きょう、ここにいらした方は、いわゆるヘイトスピーチ規制法ということを、もう既に意識してる方が多いと思われると思うんですよ。なんて今と同じようなことを言ってると、皆さん思われないでしょうか。1994年に、だから、今、名前出しちゃいます、例えば、有田芳生さんなんかが言ってるようなことと、ほとんど同じようなことを筑紫哲也さんが、テレビですね、テレビでですよ、電波の上でこういうことを言って、ドイツの言論規制は立派だみたいなことを言ってるんですね。1994年っていうの、これ、筑紫哲也さんのも、今、ひとつ資料として紹介しましたけど、それ以外にも、新聞なんかでもそういう論調がかなり目立ちまして。それが、私が、実は『マルコポーロ』の記事を書く動機だったわけです。



筑紫哲也(ちくし てつや)
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1935-2008
ジャーナリスト、ニュースキャスター。朝日新聞社記者、朝日ジャーナル編集長、TBSテレビ『筑紫哲也 NEWS23』メインキャスター、早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授(専任扱い)、立命館大学客員教授、市民団体・自由の森大学「学長」等を歴任。また、雑誌 『週刊金曜日』編集委員、『潮賞』(雑誌 『潮』)「ノンフィクション部門」選考委員も務めていた。


『筑紫哲也 NEWS23』
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1989年(平成元年)10月2日から2008年(平成20年)3月28日まで、TBS系列(JNN)で平日(祝日含む)23時台に生放送されていた、平日最終版の報道番組である。これ以降も『NEWS23』ブランドは継承されている。
評論(特にコラムコーナー「多事争論」)が人気を集める。


「多事争論」


ホロコースト(英語: The Holocaust、ドイツ語: Holocaust、イディッシュ語: חורבן אייראפע‎、ヘブライ語: השואה‎)
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第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。元来はユダヤ教の宗教用語にあたる「燔祭」(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で[1]、のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった[2]。英語では、ユダヤ人虐殺に対しては定冠詞をつけて固有名詞 (The Holocaust) とし、その他の用法を普通名詞 (holocaust) として区別している。動詞としても使用されることがある。


筑紫哲也『このくにの行方』



南京大虐殺

南京事件 (なんきんじけん)(1937年)
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1937年(昭和12年)12月の南京戦において日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、当時の日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる事件。戦後南京軍事法廷や極東国際軍事裁判で告訴された。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件 など多様な呼称がある(後述)。
この事件については、事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か、犠牲者数などさまざまな論争が存在している(南京事件論争)。事件の真相はいまだ不明である[1][2][3]。
2015年10月9日、ユネスコは中国の申請に対して「Nanjing Massacre (南京大虐殺)」資料を記憶遺産に登録した[4][5][6][注釈 1]。


スティーヴン・アラン・スピルバーグ(Steven Allan Spielberg
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(1946- )
アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー。アメリカ映画アカデミー会員。大英帝国勲章 (KBE) 受章。

映画『シンドラーのリスト』(英: Schindler's List)
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スティーヴン・スピルバーグ監督による1993年のアメリカ映画。日本での公開は1994年2月。配給はUIP。
第二次世界大戦時にナチスドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描く。ホロコーストに関する映画の代表的作品として知られる。






永野 茂門(ながの しげと)
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1922年(大正11年)- 2010年(平成22年))
陸軍軍人及び陸上自衛官。退官後は参議院議員(2期)を務めた。栄典は従三位勲二等旭日重光章。
法相就任直後、毎日新聞のインタビューにおいて「私は、あの直後に南京に行っている。南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言。事実上更迭される形で在任わずか11日で法相を辞任した。

松本サリン事件
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1994年(平成6年)6月27日に日本の長野県松本市で発生したテロ事件。警察庁における事件の正式名称は松本市内における毒物使用多数殺人事件[1]。オウム真理教教徒らにより、神経ガスのサリンが散布されたもので、被害者は死者8人、重軽傷者660人に及んだ。戦争状態にない国において、サリンのような化学兵器クラスの毒物が一般市民に対して無差別に使用された世界初の事例であり、同じくオウム真理教による地下鉄サリン事件を除けばその後も類が無い。無実の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった冤罪未遂事件[2]・報道被害事件でもある。その背景には、ずさんな捜査を実施した警察とマスコミのなれ合いがあったとも言われる。
毎日新聞では坂本堤弁護士一家殺害事件、地下鉄サリン事件と並んでオウム「3大事件」(-さんだいじけん)[3]と表現している。



杉原千畝(すぎはら ちうね)
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1900年(明治33年-1986年(昭和61年)
官僚、外交官である。
第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して[2]、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる[3]。その避難民の多くが、ユダヤ系であった[脚注 1]。「東洋のシンドラー」[脚注 2]などと呼ばれることがある。



ドイツで、ホロコーストに関する議論に対する、ついて、ガス室を疑うようなことをいうと禁錮刑



有田芳生(ありた よしふ)
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1952-
政治家、ジャーナリスト、テレビコメンテーター。民進党所属の参議院議員。
父は、政治運動家・労働運動家の有田光雄。
反韓デモ規制推進の活動家たちと共闘し、彼らからは絶賛支持されている。
2015年5月22日、民主党の有田芳生議員や社民党の福島瑞穂議員など国会議員7人が、「人種等を理由とする差別の撤廃のための施策の推進に関する法律案」を参議院に提出した。成立しなかった。
 
   
 ちょっと話が前後しますが。私は、もともとどちらかと言えば、というか、若いときは、ほんとに左翼そのものだったんですけれども、1989年に、たまたまニューズウィークの日本版で、ここにあるような、こういう記事を見ました。ニューズウィーク日本版で、こういう記事があったのを、私は、たまたま偶然目にしました。これは、1989年6月15日号で、天安門事件特集した号だったんで、私は、たまたま買って読んだんですけれど。そこにちょっと戸惑うような記事が載ってたんです。アメリカのプリンストン大学のアーノ・マイヤー教授という方がいて、この記事には書いてないんですけど、ユダヤ人です。この記事に書いてあることをいうと、アメリカにおいては左翼と見なされていて、そして、祖父、おじいさんの1人は、大戦中にナチスの収容所で死んでいると。ほんとリベラルな人なんですけれども。そのアーノ・マイヤーという人が、ある本を書いて、アメリカで物議を醸していると、大論争になっているって記事なんですね。

 どういうことかというと、『なぜ天は暗くならなかったのか』という題名の本を書いて、その中でマイヤー教授は、プリンストン大学の教授です、大変権威有るところの人ですが。プリンストン大学の教授であるマイヤー教授が、大戦中、ユダヤ人の多くはガス室で殺されたんじゃないんだと。病気や飢えで死んだんだと。誤解しないでほしいんですけど、ガス室ないとは言ってないんです。ガス室もあったけれど、それで殺されたのはごくわずかで、大部分は病気や飢えで死んだんだと。それから、ドイツは最初からユダヤ人を皆殺しにする意図はなかったと。それが、ただ戦争中の混乱でそういうふうになっていったというような、ちょっと曖昧な書き方をしてますけれど、そういう本を出して、すごい非難囂囂の嵐が起きているという、そういう記事なんです。ニューズウィークのこの記事は、基本的に、このマイヤー教授を批判する記事です。こんな、今ごろになって、なんでこんなとんでもないこと言うんだというような感じなんですけれど。しかし、ニューズウィーク日本版に、一応、これ評価したいのは、日本のマスコミは、アメリカでこういうことをいう人がいても、議論の存在そのものを紹介しないんですね。日本のマスコミの1つの特徴は、論争を隠すってことだと、僕は思うんですよ。

 第2次大戦直後から、ドイツのやったことに関して、ガス室なんてほんとにあったのかという声は、ユダヤ人の側からも出ててずっと論争あったのに、そういう論争なかったかのように、左右を問わず、日本の新聞、テレビ、雑誌は、そういうことを隠してきた。だけども、これは日本版です、僕は、英語版のこの記事を持ってますけれども。それを、ニューズウィークは、もちろん出してなかったんで言いませんけれども、ここではっきり、圧倒的大部分のユダヤ人はガス室で殺されたんだって、ニューズウィークは、はっきり書いていますけれども、でも、こういうことを言う人がいるという、社会的事実を紹介するわけですね。これを読んで、読んだときは、僕、変なこと言う人だなとしか思えなかったんですけれども。

その後いろいろと、僕はもともと活字中毒でいろんな本読んでたんで、英語のいろんなものをたまたま読んでたときに、この記事、ちょうど該当するような出版物に触れる機会があって。それは、さっき言った、放火された、Instirute for Historical review、略してIHRと呼ばれていますけれども。IHRという出版社が出してる英語のパンフレットをたまたま読んで、これ思い出して、そうだニューズウィークに載ってたなっていうんで、何かこういうこと議論あるんだなということに、私は気がついたわけです。ただ、それ1989年です。

 ついでに言いますと、ここ、皆さんいろんなご意見の方いらっしゃると思うんです。僕は、あんまりそんな歴史に興味ある方じゃないんですけれど。皆さんいろんなご意見あると思うんです。僕は、バリバリの反原発派で、当時も今もそうなんですけれど。広瀬隆さんの本をよく読んでたら、広瀬隆さんの本の中で、ヒットラーやナチスを育てたのはアメリカの銀行で、銀行家たちであると。ロックフェラーや、モルガンが彼らを育てたんだというようなことを書いてるの、読んだことがあって。僕、非常に頭が混乱したんですね。それまで、学校で習ったような歴史では、日本とドイツは、とにかく悪かったんだと。私は、まったく素直にそう思ってたんですけれども、広瀬さんの本を読んでいくと、だけど、ナチスを育てたのは、アメリカのウォールストリートだというようなことが出てきて、そう単純な話ではないんじゃないかと。
 それから、論客で、藤井厳喜さんというお名前の方がいらっしゃいます。前、藤井昇さんとおっしゃったんですが、その方の本の中で、レニー・ブレナーというアメリカのジャーナリストのことが紹介されていて。レニー・ブレナーというのは、アメリカのものすごいリベラルなユダヤ人ジャーナリストなんですけれども。独裁者の時代のシオニズムという本で、シオニストの活動家たちが、大戦中、実は、ナチスと協力していたと。協力関係にあったということを、ユダヤ人のジャーナリストが暴露した本を書いたと。そういうことをいろいろ読んでて、今まで自分の習ってきた現代史と、何か違うとこあるんじゃないかと思っていたときに、こういうニューズウィークの記事をたまたま読んだので、私は、そういうホロコーストについて、実は、欧米に議論があるってことを知ったわけですね。

 

アーノ・ジョセフ・マイヤー(Arno Joseph Mayer)
→WIKIPEDIA
1926年- )
アメリカ合衆国の歴史学者。プリンストン大学名誉教授。






広瀬隆(ひろせ たかし)
→WIKIPEDIA
(1943年 - )
反原発活動家、作家。


藤井厳喜(ふじい げんき、本名:藤井昇
(1952年 - )
→WIKIPEDIA
国際問題アナリスト、未来学者、評論家。専門は国際政治。拓殖大学日本文化研究所客員教授、警察大学校専門講師、株式会社ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ・オブ・ジャパン代表取締役。保守派言論人として知られてい]。

Lenni Brenner
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(1937-)
an American Marxist Trotskyist writer. In the 1960s, Brenner was a prominent civil rights activist and a prominent opponent of the Vietnam War.


https://twitter.com/nishiokamasanor/status/584993697818931200
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西岡昌紀
‏@nishiokamasanor
「レニー・ブレナー(Lenni Brenner)というユダヤ人ジャーナリストが書いた“Jews in America Today”という本が話題になっている。」(藤井昇(著)『日本が経済封鎖される日』(PHP研究所・1987年)89ページ)

17:19 - 2015年4月6日
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 ただ、別に、それで、もうほんとにマスコミってとんでもないもんだなと思いながらも、別に、何かそれで自分が書こうなんてまったく思ってなかったんですけれども。さっきの大変すばらしいお話にちょっと重な部分があるんですけども。その後、1991年に湾岸戦争という戦争がありました。そのときに、私は、アメリカの戦時報道、さっき出た、イラクでのプロパガンダのこととか出ましたけれども。自分の時代の問題としての戦時報道というのを見て、知識のあったガス室の問題、それを改めてちょっと考えたんですね。

赤ちゃんをイラク兵が殺したっていう話もそうだったですし、それから、私が非常に印象に残ってるのは、開戦後まもなくペルシャ湾に原油が流れ出して、それで水鳥が油だらけになってる画像が流れて、それでものすごい反イラク感情が高まったわけです。

 車の中でニュース聞いてたら、アメリカで、もうこれは戦術核兵器を使う段階じゃないか、なんていう声が出てるとかいって。どうなるんだろうと思っていたら、その油まみれの水鳥は、別に、イラクが原油放出じゃなくて、その年の終わりになって分かりましたけれども、アメリカの空爆で原油が流れて、それでそうなってたんだってことが分かって。それなのに、映像でだまされると、世論というものは、なんて簡単に、自分もその1人ですけども、世論って、なんて情けないんだろうと。もう違ったキャプションつけられただけで、すぐ憎しみの対象がコロリと変わってしまう。こんなものなのかと。民主主義って、こういう恐ろしい面があるんだなということを思ったりしてたんですね。

  湾岸戦争
→WIKIPEDIA
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1990年8月2日にイラクのクウェート侵攻をきっかけに、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。
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ナイラ証言
→WIKIPEDIA
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「ナイラ」なる女性(当時15歳)が1990年10月10日に非政府組織トム・ラントス人権委員会(英語版)にて行った証言。イラクによるクウェート侵攻後、イラク軍兵士がクウェートの病院から、保育器に入った新生児を取り出し放置、死に至らしめた経緯を涙ながらに語った事で知られる。当時のマスコミはクウェートへ入れなかったため、この証言が信憑性のあるものとされ、広く喧伝された。アメリカ合衆国上院議員や大統領も幾度となく引用しており、湾岸戦争の布石を敷くこととなる。

当初はアムネスティ・インターナショナルや避難民からの証言により、裏付けの取れたものであった。しかし、クウェート解放以後、マスコミが同国内に入り取材が許された結果、新生児の件は虚偽であった事が発覚。また、1992年に「ナイラ」なる女性は苗字がアッ=サバーハ(al-Ṣabaḥ、アラビア語:الصباح)であり、当時クウェート駐米大使であったサウード・アン=ナーセル・アッ=サバーハの娘との事実が明らかになった。その上、証言自体がクウェート政府の意を受けた、ヒル・アンド・ノウルトンによる自由クウェートのための市民運動(英語版)広報キャンペーンの一環であったことが判明した。

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ペルシャ湾に原油が流れ出して、それで水鳥が油だらけになってる画像


 
 

 湾岸戦争終わった直後に、今度は、いわゆる右の人とされてますけども、亡くなった江藤淳さんは、第2次大戦後の、日本を占領したアメリカが、いかに日本のメディアに対して検閲を行ったかということを研究された方で。アメリカに行って、当時のアメリカの検閲の仕方を詳しく研究して、『閉ざされた言語空間』という本を書いた方ですけど。その方が,湾岸戦争終わった直後に、湾岸戦争中の報道を振り返って、ある談話記事を出したんですね。この中にとても印象に残ってることがある。ちょっと抜粋して読みます。

 今度の湾岸戦争で検閲というものがあることを、久しぶりに思い出した人もいるだろ。また若い人たちの間では、初めて知った人が多いかもしれない。多国籍軍も、イラク側も、非常に徹底した検閲を行った。その結果、不思議なことに、いったいイラク側でどれだけ犠牲者が出たのか正確な数が和からない。私は、かなり角度の高い筋から聞いたところでは、クエートだけでイラク兵が30万人死んだという説もあるようだ。一方アメリカ側の犠牲者も数百人ということになっているけれども、実はよく分からない。検閲が、戦死者の姿が見えない、きれいな戦争を作り上げたのである。テレビで見る多国籍軍側の映像は、アメリカの管理下の下で作られた映像だった。私は、あの一連の映像を見たときに、アメリカは本気でやっているなという気持ちがしたものだ。

これ、貴重な内容なんで、全部読んじゃいます。





江藤淳(えとう じゅん
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1932年(昭和7年)-1999年(平成11年)
文学評論家、文学博士(慶應義塾大学)。東京工業大学、慶應義塾大学教授等を歴任した。
いとこに小和田優美子(日本ユニセフ協会評議員)で、 優美子の娘に皇太子妃雅子がいる。


江藤淳『閉ざされた言語空間』




 
   

 話は11年前にさかのぼる。1980年の春、私は、日本占領中に米軍が行った、検閲の研究のためアメリカに滞在していた。日本の国際交流基金から派遣されて、ワシントンのウィルソンセンターという研究所に、研究員として滞在していたのである。そのとき研究所で、ベトナム戦争を振り返るシンポジウムが開かれた。ベトナム戦争の際、大いに反戦の論陣を張ったニール・シーハンというアメリカのジャーナリストも、当時この研究所に研究員として来ていた。ベトナム戦争は、今度の湾岸戦争とは対照的に、アメリカが苦渋を飲まされた戦争である。しかも、1980年の春は、カーター大統領の、イラン人質救出作戦が失敗した直後だったから、アメリカにとっては非常に暗い雰囲気のときだった。

 ところで、ベトナム戦争当時のディーン・ラスク国務長官は、もうすでに引退して、郷里、ジョージア州のジョージア大学の教授になっていたのだが、シンポジウムに参加してほしいと招請したところ、彼は、アトランタから飛行機に乗ってワシントンまでやってきた。パネリストでもなければ、発表者でもない。フロアの一隅にじっと座っている初老の人物を見て、ディーン・ラスクそっくりの人がいるなと思ったら、まさにその人であった。彼は、黙然と議論を聞いていた。私も外国人だし、ベトナム人は、ベトナム戦争について、アメリカ人同士がギリギリ言ってるのを、ただ、黙って勉強のために聞いていた。するとラスク元国務長官がシンポジウムの最後に手を挙げて、肺腑(はいふ)をえぐるえぐるようなことを言ったのである。今までいろいろ貴重な意見を賜ったけれども、私は、この戦争は失敗だと覆ってる。そのことについては、ご異存はないでしょう。みんなシーンとして、ラスク元国長官は続けた。
 なぜ失敗だったかと言えば、合衆国政府はベトナム戦争では一度も検閲しなかったからだ。勝第2次大戦においては、誠に酷烈なる検閲を実施して戦争に勝ち抜いたのに、ベトナム戦争では検閲をちゃんとやらなかった。したがって、われわれは15の国民の支持を得ることができなかった。考えてもみたまえ。自分の息子や、恋人や、夫が、ベトコンに惨殺されてる場面を毎日のように見ている国民が、この戦争を続けましょうという、政府の呼びかけに積極的に応えるわけがない。ああした報道の下では、どんな政府でも、戦争を続行し、勝つことなど不可能だ、ラスク元国務長官がこう言ったとき、シンポジウムの会場は、満場水を打ったように静かになった。特に反戦を叫び続けていたニール・シーハンが一言も反論せず、厳粛な顔をしてうなずいていたのが印象的だった。これは、とっても印象的な記事で、この後、日本の憲法制定における検閲の話にいくんですけれども、それはともかくとして、湾岸戦争直後にこの記事を読んだときに、私はものすごい衝撃と、考えさせられて。特に、ラスク国務長官が、ベトナム戦争は検閲しないから負けたんだと。とか、第2次大戦は、検閲をやったから勝ったんだというようなことを言ってるわけですね。

ウィルソンセンター(Wilson Center、正式名称は「研究者のためのウッドロウ・ウィルソン国際センター (Woodrow Wilson International Center for Scholars)」)
→WIKIPEDIA
「ウッドロウ・ウィルソンの理念と懸念を記憶にとどめるべく、思想と政治を結び付け、国内および世界の政策と学術に関わる多様な人々の間に研究と学術討論と協力を促進すること」[1]を目的として、1968年に米国議会がスミソニアン学術協会の下に設置したシンクタンクである。
2012年1月に国連大学が世界のシンクタンクについてまとめた報告書では、全米8位、全世界で15位に位置付けられている[2]。



ニール・シーハン
→WIKIPEDIA







ディーン・ラスク(Dean Rusk)
→WIKIPEDIA
1909-1994)
アメリカ合衆国の官僚。ケネディ及びジョンソン政権で国務長官(1961-1969年)を務めた。国務長官の在任期間はコーデル・ハルに次いで歴代2位の長さである。

南ベトナム解放民族戦線
(ベトナム語: Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam / 𩈘陣民族解放沔南越南, 英: Viet Cong)
略して解放戦線と呼ばれたが、越南共産(ベトナムコンサン)を略したベトコン(越共)と通称されることも多い。
→WIKIPEDIA
南ベトナムで1960年12月に結成された反サイゴン政権・アメリカ・反帝国主義を標榜する統一戦線組織。


 
 


 それで、私はそれまでの、このガス室について議論がありながら隠されてきたことと、それから、湾岸戦争のときに自分が見た政治報道というものを考えて、そうだ、そのホロコーストといって、われわれが、今、信じているものは、結局、湾岸戦争のときの政治報道の、油まみれの水鳥や、赤ちゃんを外に出して殺したって話が、50年たって、それで歴史になっただけのこと、何十年たって歴史になっただけのことなんじゃないかと。気がついたら、結局、歴史といって、学校で習い、テレビで繰り返し見せられてるものというのが、元を正せば、検閲によって売り出された映像や物語だったんじゃないかと。その1つの例が、ナチのガス室の話だったんじゃないかということを、非常に、これは『SAPIO』なんですけれども、『SAPIO』に載った江藤淳氏の記事を読んで思いました。

 後でちょっと話が出ると思うんですけど、私個人は、政治的には右でも左でもなくて、ほんとどちらでもないと思っているんですけれども。だから、右の人の書く物も読むし、左の人の書く物も読むってことを非常に昔からやってきてるんで、広瀬隆さんの本も一生懸命読むし、江藤淳さんの本も一生懸命読むということで、もう、それで、こういうことに気がついたかと思うんです。だから、自分を右とか左とかいうことに規定してる人っていうのは、たぶん、右だって言ってる人は左の人の本を読まないし、私は左ですって思ってる人は右の人の本を読まないから、こういう違った論者の言ってることを結びつけるってことができないんですね。だから、広瀬隆さんと江藤淳さん両方の読んでると、こういうことに気がつくんだと、私は、ちょっと生意気言えば思ってるんですけれども。ちょっと年寄臭いことを言えば、若い方が、なんか自分の論敵みたいな人の聞かないみたいなことが多いのは非常によくないと思いますね。


 『SAPIO』
→WIKIPEDIA
 
 主催/
のら猫の手
  あります。最近でも、差別反対の反レイシズム界隈なんですが、ヘイトスピーチ反対の、ああいう反レイシズム界隈は、論的な話を絶対言わない。それで、ことしは1月ぐらいなんですけど、『WiLL』の花田編集長と、ノーヘイトの「ころから」の木瀬社長とが対談をしたんですけどね。花田編集長の方は、ヘイト本指定されてすごい批判されてる本を、きちんと付箋をつけてたくさん読んだ後が見られる。それで、逆に「ころから」の社長さんはね、読んでませんって言ったんだよね。読んでないのに批判できるんですかとか、また大騒ぎになってましたけど。ノーヘイトとか、「ヘイトスピーチ反対」とか、「ヘイト本を置くな」って人は、「読んでません」って人多いんですね。ほんとにそういうこと感じました。
『WiLL』
→WIKIPEDIA

花田紀凱(はなだ かずよし)(1942- )
→WIKIPEDIA
雑誌編集者。
1994年『マルコポーロ』編集長に異動(初代・2代目では部数が伸び悩み、3代目)。順調に部数を伸ばしていたが、1995年2月号において、西岡昌紀によるホロコースト否認論を掲載。サイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受け廃刊。花田自身も編集長を解任され、閑職といわれる『戦後史企画室』に異動。分掌業務とは別に、新雑誌の企画を提案するなどしていたが、だんだんと出社しなくなり、事件の1年後の1996年に文藝春秋を退社した。
2004年にワック・マガジンズに取締役として迎えられ、同年11月に創刊された『WiLL』の編集長に就任。そこで何回か、西岡昌紀の原稿を採用。
2016年2月、ワックマガジンズを退職するとともに『WiLL』編集長を退任、飛鳥新社に移って創刊予定の新雑誌で編集長を務める見込みと報じられた。


ノーヘイトの「ころから」の木瀬社長

2015/02/09 LOFT PLUS ONE
「「WiLL v.s. NOヘイト!」〜出版業界と「ヘイト本」ブーム〜」
【出演】花田紀凱(WiLL編集長)、野間易通(C.R.A.C.)、古谷経衡(評論家)、木瀬貴吉(ころから代表)ほか
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第一部では創刊10周年を迎えた保守系雑誌『WiLL』(ワック出版)の花田紀凱編集長が登場。出版業界の「ヘイト本」ブームを取り上げた『NOヘイト! 出版の製造者責任を考える』を刊行した「ころから」の木瀬貴吉代表と「ヘイト本とは何か?」を編集者、パブリッシャーの立場から語ります。

第二部では、対レイシスト行動集団「C.R.A.C.」の野間易通氏と評論家の古谷経衡氏が、「ヘイト本」ブームにいたる20年間を検証。ライターとしても活躍する2人の「見立て」を語ります。

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出版業界の「NOヘイト!」側への批判
https://togetter.com/li/781027

 
       
西岡   
 それで、私がこういう問題に関心を持っていたという経緯をちょっと、現資料に沿いながらお話ししたんですけれども。それで、1994年にそういう問題意識を持ったんで、私はそれまでに、1989年から集めてきた英語の資料を山のように持ってたんですけれども、誰かがこれを取り上げるべきだと。そうしないと、筑紫哲也さんが言ってるみたいな方向になっちゃうからと思ったんですね。

 たまたまそのときに、そこに本があるようですが、木村愛二さんという、左翼護憲派のジャーナリストですけども。その方の『湾岸報道に偽りあり』という、とてもいい本があって。それを読んで、この人なら分かってくれるんじゃないかと思って。これは、その後で書いた本ですけどね。その方とコンタクトを取ったらば、いろいろあったんですけれども、この本じゃないんですけどね。木村愛二さんが、ちょっと時間がたってから非常に関心を持ってくれて、それで私に、英語の資料をいきなり送ってもみんな分かんないから、あなたが自分で解説を書いてくれと言われて、えーと思ったんですけども、ワープロで日本語の解説を書いて、それでいろんなところにダイレクトメールで送ったんですね。

そしたら、その中で、当時『マルコポーロ』の編集長だった花田編集長が、これは面白いと言ってくれて、それで、西岡さん書いてくださいって電話がかかってきて、1994年の夏に書くことになったっていうのが、『マルコポーロ』に書くことになった経緯です。
 それが経緯なんですけれども、こういう流れからいうと分かっていただけると思うんですけれども。

私は、いわゆるドイツやナチスの問題にそんな関心あったわけじゃないし、それから、ユダヤ人問題もそんな関心ないんですね。ただ、そうじゃなくて、こういうふうに、報道や情報操作の問題に非常に自分なりに考えるところがあって、しかもそれがエスカレートして言論統制という形にまでなってくると、うそをついて人をだましておきながら、そのうそがばれかけてくると、今度は、そういうことを言うやつは罰するぞっていうのはとんでもないことで。
ソルジェニーツィンの言葉で、「うそと暴力は双子の兄弟だ」と。「2人は、いつも一緒にやってくる」って言葉ありますけども、うそをつきまとっていて、そのうそを指摘されると、今度は、禁錮刑にするぞというのは暴力で対応するということですから、こんなことは許せないという気持ちからダイレクトメールを送って、そして、その反応として、私が記事を書いたというのが『マルコポーロ』に記事を書いた経緯です。

 事件のことを、あんまり細かく言う気はないんですけれども。事件についてどういう経緯があったかというと、年が明けた1995年1月17日に、私が前の年の夏に書いた記事が掲載されました。4カ月待ったんですね。それで、本当に不思議な偶然ですけど、阪神大震災の起こった日に発売だったんですけれども。それがどう影響したのか、ときどき文春の関係の人なんかと話すんですけれども。それで、しばらくはこの問題が浮上しなかったとみるべきなのか、ちょっとよくそこは分かりませんけれども。とにかく阪神大震災の、ここはもちろん大阪ですから、皆さんとてもご記憶だと思いますけども、新聞も、テレビも、そればかりになっていましたから、しばらく私の記事のことなんか当然取り上げられなかったんですが、もう発売の翌日から、いわゆる抗議は起きてたようで、サイモン・ウィーゼンタール・センターと、イスラエル大使館が抗議をしてきたということなんですけれども。
 それについてお話ししたい前に、私は、実は、そのときの反応で、むしろとても興味深いことだと思ってるのは、みんな、誰も指摘しないんですけれども。私が『マルコポーロ』の記事で、あの記事はちょっと未熟なとこがあって、非常に間違ったことも書いてるんですけども。私が結論として書いたことは、今日描いたことは今日アウシュビッツで公開されてるガス室は、僕、こう書いたんですよ。ポーランドの共産主義政権か、同国を支配したソ連がねつ造したものであるって、訴えたんですね。イスラエルなんて一言も書いてないんですけれども、イスラエル大使館が抗議してくるわけですよね。ところが、僕が一番注目してたのは、ポーランド大使館はまったく抗議してこなかったんですよね。誰も、これを言わないんですよ。もちろん、ソ連も抗議してこないんですけれども。これ、今でも面白いことだったと思ってます。気がつかなかったのかもしれませんけれども、だけど、とにかく私はそういうふうに書いたんだけど、抗議してきたのは、先ほどお話にあったサイモン・ウィーゼンタール・センターという団体と、イスラエル大使館だったと。

 ただ、ここが、またもう1つ皆さんに、この機会に知っといていただきたいんですけれども。当時サイモン・ウィーゼンタール・センターとイスラエル大使館の間には、かなり温度差がありました。といいますか、私が風の便りに聞いてるところでは、大げんかがあったと聞いています。なんにも、一緒になってやってたんじゃないんですよ。これは、僕、非常に言ったんですけれども、事件直後に花田編集長なんかにも言ったんですけれども、ユダヤ人という呼ばれる人たちが、なんか一枚岩であるような言い方は大変間違ってると。抗議してくれるイスラエル大使館と、サイモン・ウィーゼンタール・センターすらが、もうすごい不協和音を起こしてて。これは、新聞で確認できます。この本のどこかに書いた。

木村愛二(きむら あいじ)
→WIKIPEDIA
(1937- )
ジャーナリスト、木村書店代表。筆名に征矢野仁、徳永正樹。歴史見直し研究会代表。ホロコースト見直し論者。





 アレクサンドル・ソルジェニーツィン
(ロシア語:Александр Солженицынアリクサーンドル・サルジニーツィン;
ラテン文字転写の例:Alexandr Solzhenitsyn
ロシア文字からそのままローマ字にするとAleksandr〜だが、英文ではAlexander〜と表記されることが多い。
→WIKIPEDIA
(1918-2008)
ソビエト連邦の作家、劇作家、歴史家。1990年代ロシア再生の国外からの提言者である。ソビエト連邦時代の強制収容所・グラグを世界に知らせた『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し、1970年にノーベル文学賞を受賞。1974年にソ連を追放されるも、1994年に帰国した。
ソルジェニーツィンの生涯は、彼の人生を左右した二つの価値観、つまり父譲りの愛国心と、母譲りのキリストへの信仰心に彩られている。愛国者として彼は大祖国戦争に従軍し、国外追放の身であってもロシアの再生を提言した。信仰者としての彼は、ロシアが愛国心の方向を誤った時、断固神の基準に立って幾多の人生の試練に神の信仰によって立ち向かった。彼はノーベル文学賞よりも、宗教界のノーベル賞テンプルトン賞が嬉しかったという。また国外追放後にソ連市民権が回復すると彼は喜んでロシアに帰還した。





阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)
→WIKIPEDIA
1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大規模地震災害である。


サイモン・ウィーゼンタール・センター(英:Simon Wiesenthal Center、略称SWC)
→WIKIPEDIA
アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルスにある寛容博物館(Museum of Tolerance)を運営する組織。
同センターはホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の記録保存や反ユダヤ主義の監視を行い、国際的影響力を持つ。米ロサンゼルスに本部を置き、エルサレム・ニューヨーク・トロント・マイアミ・シカゴ・パリ・ブエノスアイレスなどで事務所を運営。民間の寄付で運営される非政府組織で、2012年は2億6000万ドルの寄付を受けた。

 
主催/
のら猫の手 
 
ウィキペディアでも書かれてます。

   
 西岡  
 産経新聞に、意味深長な記事が載ってるんです。産経新聞の1995年の……、いいや、私の、この本の273ページに載ってます、イスラエル大使が過剰反応は危険と言ってる。案に、イスラム主義批判してるなって、私、読んだとき感じたんですけど、そういう記事が載ってて。イスラエル大使館は、イスラム政府がやることにまったく、ありがた迷惑みたいに思ってたようですね。ただ、そういうことがあったんですけれども、話を戻すと、1月17日に発売されて、抗議は、とにかく起きてきた。ただ、地震の報道などがあったので表面化してなかったんですね。それが、10日ぐらいたったころから小さい記事が新聞に出始めて、『マルコポーロ』の記事に抗議が寄せられてるってことが、新聞に小さく出始めました。

 あと、ここをやっぱりお話ししなきゃいけないと思うんですけ。当時、私は厚生省直轄科の某病院で働いてたんですけれども。1月17日に発売された直後には、私に何の反応も、リアクションもなかったんですよ。ここ誤解してる人多いんですけど、なんにもなかったです。それどころか、私の病院の某管理職の人が、事務系の左なんですけど、廊下で私を呼ぶから、何だろうと思ったら、先生読んだよ、すごいねなんて言って感心してくれてて。なんにもその、厚生省職員でしたけど、当たり前のことなんですけども、厚生省からは何のリアクションもなかったですね。ところが、それから抗議が、広告ボイコットという形でSWCが、広告を載せるなと。『文芸春秋』全体に抗議を載せるなということになって、事態が、いわば深刻化してくるわけです。それで、1月20日ごろに、ちょっと心配になって編集部に電話を入れたら、これは笑い話なんですけども、花田編集長が電話に出たわけですよ。編集長どうですか。なんか講義があるそうですけど、大丈夫ですかって言ったら花田編集長は、電話の向こうで、いや、西岡さんありがとうございますとか言うんですね。それで、なんて言ってますか。おかげで『マルコポーロ』の名前が世界中に知れ渡りました、これ。それで僕は、この編集長大丈夫かなと思ったら、大丈夫じゃなかったわけですよね。

 だけど、それは笑い話なんですけど。ただ、それ、20日前後には花田編集長もそんな感じなんで余裕綽綽だったんですよ。こんなの大丈夫でしたと思ってたら、1月26日に電話尾したら、ちょっともう深刻な感じだったんですね。1月26日に、僕は覚えているんですけど、文芸春秋に行って、当時のデスクなんかと会ったら、とても印象に残る言葉を聞いたんですけれども、広告ボイコットが『マルコポーロ』だけじゃなくて、文春の雑誌全体に波及してるということで、こんなこと言ったんです。某編集者が、私たちが経験したことのないことが起きてますって言ったんですよ。これは、ちょっと僕はびっくりしましたね。というのは、文芸春秋は、『週刊文春』で、例えば、朝鮮総連なんかとしょっちゅうけんかしてて、抗議ファクスの嵐を受けたりすることも慣れきってたんですけれども、その文春の編集社が、あの広告ボイコットについて、私たちの経験したことのないことが起きてますって言ったんですね。

 事件から数年たったときに、名前言います、さる、ちょっと名の有る左翼系のジャーナリストの方と、この『マルコポーロ』の事件の話ししていたら、そのときのことを話したら、その人がこう言ってるんですね。
「それは、電通ですね」って言うんですね。「電通じゃなきゃそんなことできませんよ。つまり、まったく広告入らなくなるっていうのは、電通でなきゃできません」っていうことを言ったので、そうか、電通が動いたんだなって後になって思いましたけども、その辺はよく分かりません。
ただ、広告のボイコットのことで、僕は、非常に言いたいことがあるんですけど、事実を言うと、SWCが広告ボイコットを呼びかけても、実は、SWCの言うことを無視してる企業があったんですよ、結構。
   
 発言  
 「結構あった」? 聞かなかった?
   
 西岡  
 ほら、そういうふうに言うでしょう。だから、みんなそれで勘違いしてるんですよ。

 面白いのは、SWCの広告ボイコットの呼び掛けに反応する、応える順番を見ていくと、最初、フォルクスワーゲンとか、三菱自動車とかから始まって、なかなかところがそれに乗らない企業があって。例えば、最後まで乗らなかった、最後の最後になってやっと広告ボイコットに応じたのがマイクロソフトだったんですよね。順番見てくと面白いのは、僕に言わせるとシオニスト・ロビーにちょっと頭が上がらないような企業ほど、やっぱり早くボイコットに応じてるんだけれども、そうでもない企業は、案外無視してるんですね。

   
主催/
のら猫の手 
 
それは知らなかった。


   
 西岡  
 私、事件直後から言って、この本でも書いたことなんですけども、サイモン・ウィーゼンタール・センターっていうの、そんなにすごい組織だと思うのは間違いで、私はそんなに影響力ないと思ってます。事件当時から、この広告ボイコットのことですごい力を持てるんだというようなことで、ユダヤ人の力すごいみたいなことを言う人たちがいましたけれども、僕は逆で、当事者の僕は、なんだ大した力ないなと思ったんですね、SWCってね。その後、事件直後にある人がとても面白いこと聞かせてくれたんですけれども。1973年の石油ショックの後で、第2次中東戦争をきっかけに、日本がちょっと外交方針アラブ依里にしたわけです。そのときに、アメリカのユダヤ人団体の中で、それに非常に怒った団体があって、日本製品のボイコットをするぞって、脅しをかけたことがあったんだそうです、アメリカ国内で。もう日本のテレビも、車も買ってやんないぞみたいな運動をやるぞっていったことがあったんだそうです。しかし、実際には日本製品の不買運動なんて起きなかったわけですね。

 その話、自分でちゃんと裏取ってませんけど、これも大変面白い話だと思って。『マルコポーロ』の広告ボイコットの話も、電通が出てきたのかなという、これ証拠はありませんよ。だけど、某左翼ジャーナリストは、絶対電通だって言ったわけですけども。確かに、広告がまったく載らないっていうと電通が動いたのかなという気はするんですけれども。もし仮に電通が動いたとして、電通が助けなかったら、ほんとに広告ボイコットは成立したのかってことですね。つまり、そんなにサイモン・ウィーゼンタール・センターに、力、私はないと思いますね。

それから、サイモン・ウィーゼンタール・センターと創価学会の協力関係っていうのは、もうこれは公然たるもので、非常にあるわけですけども。創価学会、あるいは、創価学会がどういうふうにあのとき動いたのかは分かりませんけれども、何かの形で協力してたでしょうと推察しますけれども、そのサポートがなかったとしたらどうだったのか。だから、SWCに、そんなに力は、私はないんじゃないかと。むしろ彼らは、力があるように見せたいってところがあるんじゃないかと思います。

 
 西岡  
 さらに、ここにいらっしゃる方、非常にレベルの高い、意識の高い方だと思うんで、あんまり、こんなこと言う必要もないと思うんですけども、今でもなく、私も花田編集長も、ユダヤ人に対する敵意なんてまったくないですから。そんなもんないし、ユダヤ人差別なんてとんでもないと思ってるのが、私と花田編集長で。

事件の結果、ところが日本人の中で、ユダヤ人は怖いみたいな気持が生れてしまったのは事実だと思って、これは、私も花田編集長も本当に残念に思っています。

別に、いいこぶって言うんじゃないんですけれども、事件の後、文春に読者の手紙結構来てて、私、全部見せてもらったんですね。40人ぐらい、確か来てたと思いますけれども、やっぱりそん中読むと、ユダヤ人は怖いと思いましたみたいなことを書いてる人っているんで。いいこぶって言うんじゃないんですけど、私は、ちょっと1人1人手紙書いて、ユダヤ人のことを悪く言うのはやめてくれというふうに手紙を書きました。私も花田編集長も、まったくもってそういう信条でやってるんですけれども、メディアではそうじゃないようなふうにやっぱり取り上げられるわけですね。

   
 西岡
 それから、事件に関して、この事件があって2~3年たったころなんですけど、1998年だったかな、ちょっと気になる記事が出ました。それは、同志社大学の渡辺武達教授という方がいらっしゃいます。非常に創価学会寄りの方ですね。ご存じでしょう。『第三文明』という創価学会系の雑誌があるんですけれども、その中にコラムを書いてて、渡辺武達氏が非常に気なることを書いたんですね。それは、要するに『マルコポーロ』廃刊事件で、文春を、改めて、しつこく、しつこく、あの人は文春を攻撃するから、文春を非難するコラムなんですけども、その中でこんな事を暴露してるんですよ。

 ある文春幹部が、事件が起きてしばらくたったころに、都内で講演して、オフレコの発言をしてると。どっからそれキャッチしたのか知らないんですけれど、その人が、こういったと言うんですね。『マルコポーロ』が廃刊になったのは、記事の内容が間違っているとか、広告ボイコットが打撃を与えたからではないと言ったんですね。私の記事に正しいとか、そういうのうんぬんとかはともかく、広告のせいじゃないって言ったんですって、オフレコの会で。で、こう言ったんです。そうではなくて、同誌を廃刊にした理由は、海外で日本人がテロに遭うという情報が入ったためであるといったって言うんですよね。
 つまり、私は、事件直後に、広告ボイコットが功を奏して、文春が降参したのかなと一応思ってましたけれども、本当はそうじゃなくて、何かこのままでいくと、海外で日本人がテロに遭うかもしれないというような情報がもたらされて『マルコポーロ』廃刊にしたと、文春の幹部がオフレコの会で言ったと、渡辺武達は書いてるわけですね。渡辺氏は、文春を徹底的に批判してる人で、私と対極の立場である。いわば論的の立場にある人ですけども。だからこそ、この人が言ってる、だからこそ、その人が言ってることとして、これは非常にちょっと注目すべき情報だったのかなと思ってます。

 
 渡辺武達(わたなべ たけさと)
→WIKIPEDIA
1944- )
同志社大学名誉教授。専攻はジャーナリズムの倫理、国際コミュニケーション論。
【歴史修正主義を繰り返し批判しており、1995年に起きた、マルコポーロ事件に関して、事件の当事者であった文藝春秋社を繰り返し批判している他、交友のあった左翼護憲派の木村愛二をも厳しく批判している[要出典]。】



『第三文明』

第三文明社
→WIKIPEDIA
日本東京都新宿区新宿1丁目23-5に所在する出版社である。創価学会言論部を母体としている。
 
 西岡

 それから、言論統制ということに、ちょっと話を戻しますけれども、私は、だから、そもそも、ドイツでの言論統制の強化ということをきっかけに、日本でもこういう言論統制が進むことを危惧して、それでこれを書いたということから始まったわけですけども。あの事件の後、それから、事件の報道の中では、そういう、当然ですけど、私のそういう意図などは全然組まれないわけですね。

ただ、ちょっと興味深く思ってるのは、あれから20年たったわけですけれども、最近また、そのだから、言論統制みたいなことが出てきましたけれども、少なくともホロコーストに関する懐疑的な言論を法律で規制すべきだという主張は、『マルコポーロ』廃刊事件の後、ずっとなりを潜めていましたね。

今、2015年で、またそのヘイトスピーチ規制法っていうのが出てきて、私なりの立場からちょっと注目してるんですけれども。最近、だから、この1年ぐらいそれが非常に言われてるんですけども。その中でも、ホロコーストの問題も規制するべきだと言ってる人、僕が見る限りは見当たらない。ただ、私はこういうことをした人間だから、絶対、こういうことを、法律制定しようとする人は、これも入れようと思ってるだろうなと思ってますけれども、表立っては言わない。少なくとも筑紫哲也さんのように、テレビで他山の石ですなんていう人はいないわけで。今、あの事件を、どう、言論の分野でどう評価するべきかってちょっと難しいと思いますけれども、露骨にホロコーストに疑いを挟むことを禁止するべきだとは、言いにくい雰囲気は作ったのかなと、自画自賛になるかもしれませんけど、ちょっと思うところはありますね。

 
   
       
 西岡  

 それから、ついでにちょっと言っておくと、事件の後、事件の前からですけれども、私がお話ししたように、ダイレクトメールでパンフレットを送ったり、それから、情報操作研究会といって、この問題を論じ合う、ちょっと小さい研究会を作ったんですね。『マルコポーロ』の廃刊事件までに4回ぐらいやったかな。名前は言いませんけど、皆さん名前聞いたらびっくりするような言論界のビッグネームが来てました。

じゃあ、1人だけ、超抜的な意味で名前言いますけれども、1度だけ来た方の1人、お名前が、ホンダカツユキさんという方です。ホンダカツユキさんもおいでになりました。で、非常に共感してくださいました。これはちょっと理由があって私、というか、当時非常に私の言うことに、そのとおりだというようなことを言ってくれた人ものすごい数いたんです。名前言ったら、皆さん腰抜かすほどびっくりするような人が含まれてます。当時の朝日新聞のトップ記者みたいな人もいたし、それから、皆さんほんとびっくりするような方がいるんですけれども。ホンダカツユキさんだけは、私ちょっと名前暴露してるのは、1994年に研究会を開いてたときには、ホンダカツユキさんが来て、もうすごい共感したばかりか、一緒に私とやってた木村愛二さんに、『週刊金曜日』に連載を依頼してるんですね。だから、まさにガス室はなかったという趣旨の記事を。


 それに、木村愛二さんから聞いた話では、『マルコポーロ』の原稿を、私が花田さんに1994年の夏に渡したけど、なかなかならないと。結局4回延期になって、やっと載ったわけですけれども、なかなか載らないのを聞いて、ホンダカツユキ氏が、木村愛二氏に、その原稿、うちにもらえないかなって言ったそうです。ほんとの話です。これ、木村さん裁判までやって言ってるから、これほんとの話で。木村さんとこには執筆のファクスもありますから、物的証拠もあるんですけども。

だから、知っていただきたいことは、これは、僕は、うれしかったと言えばうれしかったんですけども、私がダイレクトメール出して、こういうホロコーストに関して、実はこういう懐疑的な議論がずっとありますということを説明するものを送って、それから、送った人から、また人づてにいろいろ広がっていく過程で、肯定的に反応する人もいれば、否定的に反論する人もいたわけですけども。肯定的に反応したり、非常に強い関心を持てきた方たちを見ると、いわゆる左右の枠を超えてた。これは、私はよかったと思ってます。




 『週刊金曜日』
→WIKIPEDIA

ホンダカツユキ
本多勝一の間違いか?

本田勝一(ほんだ かついち)
→WIKIPEDIA
1932- )
新聞記者・ジャーナリストである。

朝日新聞社を定年退職後、1993年(平成5年)に筑紫哲也、久野収らと週刊誌『週刊金曜日』を創刊し、現在同誌の編集委員を務めている。

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1994年(平成6年)、雑誌『噂の眞相』に木村愛二が「ホロコースト」の内容には再検証の余地があり、「ホロコースト」はイスラエル建国と関わりがあった可能性があると論じた記事「『シンドラーのリスト』が訴えたホロコースト神話への大疑惑」(同誌1994年9月号)を発表。以前から木村と交友があった本多は、木村の問題提起に関心を抱き、木村に『週刊金曜日』誌上で「ホロコースト」を見直す視点からの連載開始を要請した(この連載依頼のファックスは、木村によって公開されている)。しかし、1995年1月にマルコポーロ事件が起きると、『週刊金曜日』誌上で木村を批判、攻撃するキャンペーンを開始した事から、木村から名誉棄損で提訴された(この訴訟は、木村側の実質敗訴で終わっている)。
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『新潮45』2000年12月号で、週刊金曜日を退社した元社員の西野浩史は「私が見た反権力雑誌『週刊金曜日』の悲惨な内幕」という文章を発表し、
(略)
ホロコースト否認に強い興味を抱いた本多は、その立場に立つ木村愛二の論文を掲載しようとしたが、周囲に強く反対され、やむを得ず掲載を見送った。本多は、西野の面前で「“木村愛二の原稿を載せるな”と言われた。編集長が副編集長に折れることがリベラルなのか」などと直接反対したMデスクについて批判した。
(略)
など、直接自分が体験したこととして回想している。

西野の批判に対して本多は沈黙しており、反論を行っていない。

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 西岡  
 皆さんが、もしかすると、ナチが好きじゃなかったんだと、すごい右翼的な発想と思うのかもしれませんけども、当時非常に関心を持ってくれた人、それから、あるいは、共鳴してくれた方、面白かったのは左翼的な方が多かったですね。

逆に、私個人のちょっと感想みたいなことを言いますけども、いわゆる保守系の人たちに対して、私は、ある種不信感を持つようになったのは、どうも本心では、なるほどガス室はなかったんだろうなと思ってるみたいなんだけれども、表立っては全然そういうことは言わないような人が保守の側にはちょっと多かった気がしますね。

むしろ、かなりはっきりサポートしてくれるような人は、左の人に多かったですね。

別に、私を支持してはいませんけれども、事件後に何人かの人がいろいろ論評した中で、私は非常に光栄だと思ってる論評、批判なんですよ、批判だけれども論評があるの、1つだけ、ご紹介している本があるんですけど。
 皆さんご存じだと思います、広河隆一さん。パレスチナ問題を長年取り上げてこられたジャーナリストの広河隆一さんが、1998年に出した、『パレスチナ難民キャンプの瓦礫の中で』って本があって。これはもちろんパレスチナ問題をずっとやってきた広河さんが書いた、自分の自伝のような本なんですけれども。この中で、私も、実は、随分後になって、この本知って、それで読んで驚いたんですけれども、非常に長いページを『マルコポーロ』廃刊事件を論ずることに費やしてるんですね。私、見るところ、事件後、みんな要するに、この問題怖いからと言って、コメント自体を避ける人が多かったわけですけれども、広河さんが、ご自分の自伝のような本の中で、非常に長文にわたって『マルコポーロ』廃刊事件のことを論じてくださって。で、私に反論してます。反論してるけれども、私は、もうとてもうれしいです。広河さんのような立派な方が、私のことなんか取り上げてくれてすごい光栄だと思っています。


 広河さんは、1983年に初めてアウシュビッツを訪れた。それから、2回目が1997年。だから、『マルコポーロ』廃刊事件の2年後に、たまたまアウシュビッツを訪れてるんですね。それで、私の『マルコポーロ』の記事と、それから、なんとこの本の内容に即して、詳しく論述してるんですね。それで、西岡のここはおかしいと思うみたいなことを非常におっしゃって。私は、はっきりいって反論できますけれど、反論できるけれども、これだけ詳しく論じてくださったっていうことを、私は大変光栄に思ってます。広河さんは、もちろんガス室はあったし、ガス室で殺されたっていう立場からお書きになってるんですけど、こんなこと書いてらっしゃいますね。

 アウシュビッツを歩きながら、私は、1995年1月に起こった日本でのある事件について考えた。文芸春秋の『マルコポーロ』誌。1995年2月号が、ホロコースト、ガス室はほんとにあったのかという内容の論文を掲載したことで廃刊に追い込まれた事件である。正確にいうと、廃刊に追い込まれたのではなく、文芸春秋は批判を受けて、自ら廃刊の道を選んだのである。この問題を軽々しく扱うことはできないが、ここで私なりに事情を説明しておこう。『マルコポーロ』誌に掲載された西岡昌紀の『ナチ・ガス室はなかった』と題する論文が事件の発端だった。長くなるので、ちょっと省略して、こんなこと書いてますね。ガス室が存在した証拠がないという説は、本当に荒唐無稽なのか。この問題に疑問を呈したり、否定する文章を掲載することは、広告引き上げの圧力を受けるほどの問題なのか。ホロコーストの検証はタブーなのか。この事件は、私たちに多くの問題を投げかけた。
 過去に、肉親をガス室で失ったと信じている人にとって、今になってその死因を疑問視されることが堪えられない苦痛を伴うということは理解できる。しかし、投げかけられた本題を検証することなく、ただ雑誌の廃刊という形で幕引きがされたため、いったい何が真実なのかと混乱した人が多いことは事実だ。多くの日本人は、事情が分からないまま、何やらのタブーの世界があるのだと考えた。そして、多くの出版社が、この問題には手をつけない方がいいという結論だけを出した。私は、ガス室問題を検証するために、アウシュビッツに行ったのではない。しかし、現地で時折この問題が頭をもたげた。ガス室はなかったという彼らの論拠に一考の余地があるのかという問題である。こんな感じで、非常に長文で議論してくださってるんですけど、こんなことも書いてるんですね。
 西岡の述べたことで、反論できないことは多くある。しかし、私はその多くは、私の無知上かもしれないとも思っている。例えば、こんな気密性の乏しい部屋では、大量の人間を効率よく殺せないと西岡は言うが、その是非は私には分からない。ただ、私がイスラエルで何度も新型催涙ガス弾を浴びた経験がある。喉をかきむしって転げ回って苦しんだこともある。少しガスを吸うことで、けいれんを起こして救急車で運ばれたジャーナリストもいた。私は、あれと同じ催涙ガスが人間が詰め込まれてる部屋に2~3発投げ込まれたら、確実にほとんどの人は窒息するだろうと思っている。


こんなふうに、非常に誠実に正面から論じてくださって、私は、これ、とてもうれしかったですね。


 広河さん、私、広河さんが書いてるいろんな議論について、すべて同じ意見ではありませんけれども、正面から、とにかく論評してくださったことに、とても光栄だったと思ってます。こういう方は、どちらかというと左翼、リベラル系の人が多かったし、有名じゃなかった方の中でも、僕はとてもうれしかったのは、お手紙くださった方の中に、1人、日教組の活動家の方がいらしたんですね。私が、この話をいうのはちょっと自画自賛なんですけども、知っていただきたいと思う。こういうことがあったことを、皆さん知らないんで、私、言わないといけないと思うんで、言うんですけれども。

広河隆一(ひろかわ りゅういち)

→ WIKIPEDIA
(1943- )
フォトジャーナリスト、戦場カメラマン、市民活動家。フォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPANの元編集長。有限会社広河隆一事務所代表。
イスラエル、パレスチナの双方に多くの人脈と知人を持ち、パレスチナ問題を取材し続けている。チェルノブイリを事故以来25年以上に渡って取材し、また救援活動を行っている。福島第一原発事故の後は、主に日本の原発や放射能に関する諸問題を取材するかたわら、福島の子どもの救援活動を行っている。福島の子ども保養プロジェクト「NPO法人 沖縄・球美の里」理事長。
日本中東学会、日本写真家協会、日本写真協会、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)、各会員。 パレスチナの子供の里親運動顧問、チェルノブイリ子ども基金・元代表。




パレスチナ問題
→WIKIPEDIA
パレスチナの地を巡るイスラエル人(シオニスト・ユダヤ人ら)とパレスチナ人(パレスチナ在住のアラブ人)との関係から生じた紛争を一個の政治問題として扱った呼称。パレスチナ・イスラエル問題と表記することもある。



『パレスチナ難民キャンプの瓦礫の中で』






日本教職員組合(にほんきょうしょくいんくみあい、略称:日教組(にっきょうそ)
→WIKIPEDIA
日本の教員・学校職員による労働組合の連合体である。教職員組合としては日本最大であり、日本労働組合総連合会(連合)、公務公共サービス労働組合協議会(公務労協)、教育インターナショナル(EI)に加盟している。また、かつては旧社会党と共産党及び民主党、その後は民進党、社民党の支持団体の一つであり、両党に組織内候補を輩出している。
 
 西岡
 ちょっと自画自賛になっちゃうかもしれないけど、そのまま言いますと、私、西岡さんの『マルコポーロ』の記事を読ませていただきましたと、こう言うんですね。その日教組の活動家の先生は、世界史の先生なんだそうです。それで、私はホロコーストのアウシュビッツの問題は、生徒たちに必ず教えてきましたと。つまり、皆さんご存じのとおり、高校の歴史というのは、最後の方は受験が迫ってくるから現代史あんまりやらないで終わっちゃうことが多いわけです。ところが、その先生は、私は、それではいけないと思いましたと。このホロコーストのことは、絶対生徒に教えないといけないと思ったので、必ずこれは教えてきましたと。ですから、私は、私なりに勉強してたんですが、その私が、この記事を読みましたと。それで、西岡さんの、この記事を読みましたが、いくら考えても、私は反論できませんでしたって、日教組の先生が、そう書いています。私は、もうかぶとを脱ぎましたと。それで私は、『マルコポーロ』の廃刊になった号を、たくさん買って、担任の、3年生全員に、私はあげましたと。それで、卒業する生徒たちに、俺は、毎年お前たち、生徒たちに、このアウシュビッツの話をしてきたと。だが、今、こういう論文が出たと。つまり、歴史というものは、検討されて、今まで言われたことが覆ることもあるんだ。その例だと思ってくれと、それが俺の餞別(せんべつ)だと。日教組の先生が、そう言って、私のつたない記事だった、間違えたとこもあったんですけど、それをとても評価してくださって、僕はすごくうれしかったですね。

 だから、私が、後で、またいろんな話が出るかと思いますけども、何の議論でも、日本の言論の世界は、プロの人から、それから、ネットの人まで、すぐ右か左かに分かれて、まるでサッカーの応援みたいに、おまえどっちなんだみたいに、すぐなるんですけれども、意見の違いは違いとして、そこは違いますよと言った上で、意見の違う人と対話するってことは、とても大切なことなんじゃないかと。私、別に日教組に共感してる人間じゃないけれども、そうじゃない、対局かもしれない日教組の先生が、こんなことを言ってくださったこと、私はほんとに名誉に思いますし、それだけに、今、歴史戦なんていって、2つの陣営に分かれて、なんか汚い言葉を言い合ってるのがファッションになってるようですけども、私は、そういうことは。

 
   
 主催 / のら猫の手  

最近でも、反レイシズム界隈は同じことをやってます。「レイシストなんか居場所なんかない、出てけ、こらー」とか、もう言論弾圧がひどいんですよ。対話も不可能って、そういう状態になっています。


   
 反SWC  

あとちょっと補足的なものですけども、恐らく保守の方が、あんまりこの問題取り上げてくれないっていうのは、実は、保守、親イスラエル派の議員が非常に多いっていうことと、あと、例えば、新しい歴史の教科書を作る会では、あちらの方で、イスラエルっていう●キリストの幕屋って宗教団体が関わっていたりとかで。一度、関係で、小林よしのりさんが、新しい歴史の教科書を作る会の会合の中で、パレスチナ問題、イスラエルを批判したら、それで紛糾したっていうこともありまして。保守の中では、ちょっとイスラエルネタっていうのは、タブーみたいなところがありますね。

 キリストの幕屋(キリストのまくや)
→WIKIPEDIA
日本のキリスト教系の新宗教である。宗教法人としての届け出名はキリスト聖書塾(キリストせいしょじゅく)[1]である。カトリックやプロテスタントなど主流派のキリスト教会では異端視され、日本のペンテコステ派ないし、民族主義との習合宗教などと見なされている[2]。 機関紙『生命之光』を発行している[3]。
手島郁郎はユダヤ系の思想家や宗教家・イスラエル要人との交流が深く、現在でもイスラエルに巡礼団を送ったりユダヤ教との交流を行っている。そのためイスラエルの国家政策に賛同することも多く[注 12]、日本における代表的なシオニズム(クリスチャン・シオニズム)グループと目されている[誰によって?]。


小林よしのり
→WIKIPEDIA

日本の漫画家、評論家。「よしりん企画」社長、「ゴー宣道場」主催。
福岡県福岡市出身(出生は大野城市)。本名、小林善範(読み同じ)。福岡大学人文学部フランス語学科卒業 、1976年に『ああ勉強一直線』を投稿しデビュー。『東大一直線』『おぼっちゃまくん』などのヒット作を持つ。
1992年の『ゴーマニズム宣言』以降、ギャグ路線だけでなく思想的・政治思想路線などの、社会評論的な活動も行うようになる。設定の矛盾をものともしない展開と飛びぬけた発想を身上としている。これは「細かい設定にこだわっていると、結果として内容がつまらなくなる」との作者の考えのためであり、より良い設定を思いつけば、あえて過去の設定は切り捨てるという。2002年から季刊誌『わしズム』責任編集長なども務める。


新しい歴史の教科書を作る会
→WIKIPEDIA
1996年に結成された日本の社会運動団体。従来の歴史教科書が「自虐史観」の影響を強く受けているとして、従来の「大東亜戦争肯定史観」にも「東京裁判史観」ないし「コミンテルン史観」にも与しない立場から新たな歴史教科書をつくる運動を進めるとしている。
政界や地方議会の一部勢力から支持・賛同を受けて4度にわたり中学生対象の教科書を出版し、採択しようとする運動を進めている。一方、編集方針をめぐって袂を分かった教科書改善の会などは、つくる会は近代的・合理主義的な国家観を有しており左派的であると批判している。日本会議が精力的な活動を見せている。

 
西岡   

 いや、別に、応援してほしいなんて思ってるわけじゃないですよ。ただ、私なりに観察してて、別に、私を批判するのは構わないんですよ。別に、ここがおかしいですと、全然いいんだけど。失望したのは、とにかく、沈黙するってところに失望しましたね。だから、異論をいうなら言えばいいのに、黙り込むっていうところで、日本の保守の人、ちょっと駄目だなと思いましたね。左翼の方は、猛烈に私、攻撃する人いるんだけど。攻撃するにしろ、あるいは、共感するの、とにかく意見言うわけですよ。この点に関しては、その方がまともだったんじゃないのかなと思いますよね。


   
   

発言 恐らくおっしゃってること、共感してる方はいっぱいいると思うんですけれども、保守の方ではやっぱり公には言えないだろうなと。

   
 西岡  

だから、ちょっと僕は、非常に変わった特異なことを体験したんだと思いますけれども、その経過を通じて、日本の言論人といわれる人たちの人間関係とか、どういう仕組みで動いてるかということをちょっと垣間見ましたね。


   
主催 / のら猫の手   
 それはありますね。もうそろそろお時間が迫ってまいりましたので、最後、締めの言葉をお願いします。


   
 西岡  
 もちろんお話ししなきゃならないことたくさんあるんですけれども。言論統制うんぬんってこととはちょっと違うかもしれませんけども、ぜひ知っていただけるとうれしいこと、また1つ言うと。

これは実現しなかったんですけれども、『マルコポーロ』の廃刊事件が起こった直後に私はちょっと、私に、味方してくれたユダヤ人から聞いた話なんですけれども、アメリカの、あるユダヤ人が、サイモン・ウィーゼンタール・センターのやり方に非常に腹を立てた。それで、その人が、ユダヤ人だけでサイモン・ウィーゼンタール・センターを非難する声明を出そうとして奔走してたと。ところが、結局やっぱりいろいろしがらみがあって、だから、ユダヤ人としてけしからんと思うけれども、名前出せないということで、結局そういう声明出せなかったんだ、そう聞きましたけれども。でも、そういうふうにして、あの事件のときに、ユダヤ人だけでサイモン・ウィーゼンタール・センター行為を非難しようとするユダヤ人がいたってことはうれしかったことだし、この機会に知っていただけたらうれしいと思います。




   
  主催/
のら猫の手
 
素晴らしいです。きょうは、ほんとに西岡昌紀さんをお迎えできて感動しました。

   
 西岡  

 とんでもありません。



   
 主催/
のら猫の手
 

ほんとになんかもう、今の2015年から、今、重要だし、あと将来的にもすごい重要な論客になる方だと思います。


   
 西岡  

 いえいえ。ただ、1994年に、なんか戻ってる気するでしょう。筑紫哲也さんの言葉を、今、聞くと、2015年になんか、失礼だけど、筑紫さんの亡霊が現れたのかなっていう感じがちょっとしますね。

   
 主催/
のら猫の手
 

本当に、これからも定期的に、また、西岡先生もご都合がつけば、またなんか大阪にお越しいただいたらいいなと思います。


   
   
西岡 はい、喜んで。


   
主催/
のら猫の手 
 
ほんとにきょう、どうもありがとうございました。

   
 反SWC   1個だけ、ちょっと。あと、ちょっと1つだけお聞きしたいことがありまして。当時、『マルコポーロ』の事件を受けて、いわゆる、普段言論の自由を守れと言っている左系の人たちの中から、文春のあり方、あるいは、●として具体的に批判というものがあったのか、どうかというところで。なんか、言論人で、こういう人たちはっきり批判したとかありましたら、ちょっとお聞きしたいんですが。
   
 西岡  

 まず、なんかさっきお話がちょっとここで出てましたけど、今なくなっちゃいましたけど、『噂の真相』という雑誌が非常に応援してくれてましたよね。というか、そもそも『マルコポーロ』の記事の前に、『噂の真相』は木村愛二さんに、シンドラーのリストが訴えたホロコースト神話への大疑惑という記事載せて、『マルコポーロ』より先だったんです、『噂の真相』の方が。あと、事件のときにも、非常に私を肯定的に書いてくれた。だから、岡留編集長にとても感謝してます。

それから、私の言ってることにはまったく賛成はしなかったんですけども、江川紹子さんが、月刊『創』という雑誌、1995年4月号に非常に長い記事を寄稿されまして。私の記事は指示しないんですよ、だけれども、サイモン・ウィーゼンタール・センターのやり方は民主主義の枠を超えたものだという趣旨で非常にはっきり批判していて。だから、私も江川さんと意見の違うこと非常に多いですけれども、だけど、いわゆる、左翼というか、リベラルというか、方に分類されている方たちの中からこういうことが出てたということは、事実として記憶しないといけないと思います。
そこにいくと、保守、言論人は何やってたんだってちょっと言いたくなりますよね、ほんとに、ほんとにそう思いますよね。


 『噂の真相』
→WIKIPEDIA
1979年3月に編集発行人岡留安則によって創刊された月刊誌。もともと2000年に休刊予定だったが、名誉毀損等による裁判費用捻出や記事での反論のため延期。訴訟の多くが確定したため、2004年4月号をもって休刊。休刊時には、編集発行人は「黒字経営」だと同誌その他で公称していた。

2014年7月、デスクの神林広恵と、元副編集長川端幹人が起こした株式会社ロストニュースによってサイゾーと共同で、後継たるニュースサイト「LITERA」が立ち上げられ、運営されている。











岡留安則(おかどめ やすのり)
(1947- ) ジャーナリスト、元『噂の眞相』編集長・発行人。
→WIKIPEDIA
月刊誌『噂の眞相』を1979年3月に創刊。2004年4月号限りで噂の眞相を休刊すると、沖縄県へ移住。

江川紹子(えがわ しょうこ)
→WIKIPEDIA
(1958-)  ジャーナリスト

月刊『創』(つくる)
→WIKIPEDIA
東京都新宿区四谷に本社のある有限会社創出版が発行するマスメディア批評を中心とした日本の月刊誌である。
 
主催/
のら猫の手 
 
江川紹子さんは、最近でも。


「YAHOOニュース」→
江川紹子「報道規制を語らう、不自由で非民主的な自由民主党」2015年6月28日
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20150628-00047033/
 
西岡    そうですね、読みました。
   
主催/
のら猫の手
 百田さんと自民党が報道に圧力かけるっていう事件のことも書いてて、批判をして、『マルコポーロ』事件みたいですねって書いてました。
百田 尚樹(ひゃくた なおき
→WIKIPEDIA
1956-
放送作家・小説家。
 
 西岡  
 あれはだから、自民党の議員がSWCから学ぼうって。麻生さんは、ナチスをまねしたらどうかと冗談でだけど言ったんだけど、その一方で、じゃあ、自民党の議員はSWCのまねしたらどうかねって言ってるようなもんですよね。
   
 主催/
のら猫の手
 
分かりました。ほんとにもう、ちょっとオフレコで、またなんか懇親会のときに、もっと過激な話とかもお伺いいたしますので。

   
西岡    分かりました。
   
   

(終了)